(二)
浅草寺の方角より鐘の音が三つ、程なくして七回響いて昼七ツの刻が知らされる。冬の陽は落ちるのが早いが、日暮れにはまだ間がある。暮れ六ツの鐘を合図に開かれる夜見世は大勢の男たちで賑わうが、まだ明るい郭の中の人通りはそれ程ではない。
一之進は表通りを突き当たりの水道尻まで進み、それから折り返して順に京町、角町、揚屋町の筋に通じる木戸を潜ってそぞろ歩く。
二万七百六十七坪の敷地の内には客が女郎との逢瀬を愉しむ妓楼や引手茶屋ばかりではなく、菓子屋や蕎麦屋、料理の仕出しを行う台屋なども軒を連ねる。一之進はそれらを眺めながら足を進めた。
通りのそこここに荷を背負って足早に行く人の姿が見える。呉服屋や小間物屋なのだろう。妓楼に出向き女郎相手に商売をした帰りと見える。
あちらでは籠を下げた男が籬の格子越しに女郎に卵を売っている。鶏卵は精が付くからと女郎にも登楼する客にも人気の品である
菓子売りが通る。貸本屋が通る。あちらの筋では按摩が通る。こちらの大見世前を易者が行き過ぎる。皆妓楼の客ではなく女郎を客として商う者たちばかり。
暮れ六ツ前のこの一刻は食事を済ませ身支度を調えてと女郎たちは大わらわで相手にならない。流石に商売も今日は店仕舞いとばかり誰もが大門を目指してに退けていく。一之進はその姿を目で追いつつ、これから夜の闇に煌びやかに浮かび上がるであろう郭の屋並みを眺めた。
突然に、す、と風を感じたような気がした。春の軽風を思わせる柔らかさと暖かさを感じさせるものだった。誘われるように一之進が顔を横に向けると、一人の男が行き過ぎるのが見えた。
紋入りの羽二重に袴を着け腰には小太刀を一振りに白扇を一本差し挟んでいる。その態ばかりでなく髪の結い方からも一目で武家の者であると知れる。随分と若いようにも見えるが、見ようによっては年嵩を重ねたようにも見える。その穏やかな表情や身の熟しからは中々歳は計り難い。侍は急ぐでもなく、さりとて漫然とするでもなく歩みを進めている。先ほど感じた風はこの男の気配だったのだろうか。一之進の目がその姿に吸い寄せられる。
侍が郭に通うのは取り立て珍しいことではない。流石にお忍びであったとしても諸大名が訪れることはないが、江戸勤番の留守居役の者も頻繁に登楼する。そうは言っても何よりも体面を重く見るのが武士の倣い。大抵は大門近くの笠屋で笠を借り受けるか、手拭いを掛けるかして髪や顔を隠して素性をおおっぴらにしないものだ。
しかしながらこの侍はその様な気遣いをすることなく、堂々と顔を晒して一向に平気な様子でいる。羽織袴姿というのも些か奇態にあるように思われる。郭の女たちは粋を好み野暮を嫌う。羽織袴は武士として正しい装いではあるが、侍風を吹かしている無粋な出で立ちとしてここでは一段下に見られてしまう。それを知っている武士は着流しで郭に来るのが常である。
さて、この人物は全て分かって涼しい顔をしているのか、はたまた単に郭馴れしていないだけなのか。判ずるのは難しいが、何とも愉快な御仁だな、と一之進は思った。
目で追う一之進をよそに、羽織に白く染め抜かれた紋がどこ吹く風といった風情で遠ざかる。あれは源氏輪に並び矢筈か。どちらの御家中の紋だろうか。どこかで目にしたことがあるはずだがと、朧気な記憶を遡ろうとした一之進の耳に不意に、ぱちん、と何かが弾かれる音が届いた。
「熱っ」
道の端で低く声を上げたのは手拭いで頬被りをし団扇を手にした男だった。据えた屋台を前にしゃがみ込んで夜の商いの支度のために火鉢で炭火を熾していたと見える。先ほどの音は炭が爆ぜた音だったか。一之進が思う矢先にまた、ばちん、と音がする。短く唸りを上げて身を反らせる男の鼻先で朱く焼けた欠片が四散する。
あ、と声を上げる間などなかった。爆ぜ飛んだ炭火中の一際大きな欠片が一直線に飛んで行く。その先には源氏輪に並び矢筈紋の侍が履く袴が待ち構えていた。焦げる。これは一悶着起きるぞ。無礼者と侍が刀を抜く最悪の光景が一之進の頭を過ぎる。目の前でそれは勘弁願いたいと念じる一之進であったが、強く思っても灼熱の礫を押しとどめることなど出来ようはずもない。
一之進の願いも虚しく爆ぜ飛んだ炭の欠片が前を行く侍に迫る。ああ袴に当たってしまう。そう一之進が思った矢先に目を疑うことが起こった。
炭の欠片が消えた。見失う大きさではなかったにも拘わらず一之進の視界から消えてしまった。どこへ行った。首を傾げた矢先に消えた欠片は不意に姿を現しぽとりと侍の履き物の脇に落ちた。地に落ちてもなお朱い明滅を繰り返していた。侍は立ち止まることなく歩みを進めている。その袴は一点の焦げ跡もなくただ歩みに合わせて揺れていた。
一之進は何が起きたのか瞬時には理解できなかった。火鉢から弾け飛んだ炭の欠片は矢の如く一直線に飛んだ。確かに侍の袴に飛んでいったのだ。途中で曲がったり侍に届く前に落ちたりはしていない。侍は飛び退くでも袴を翻すでもなく、ただ前を向いて同じ調子、同じ歩幅で歩いていた。
まるで。まるで火の点いた炭が侍の袴を素通りしてそのまま地面に落ちたかのようではないか。何かの間違いか。いや。終始この目で見ていた。確かに見ていたのだ。
首を捻りつつ一之進は炭を熾していた男に近づいた。
「これ。煮売り屋」
「へい」
「精の出ることだな」
「へい。ありがたいことでございます」
「商いのために炭を熾すのは尤もなことである。しかし先ほど炭が爆ぜたと見えた。火元には重々用心を致せ。其方の過ちであったとしても、失火となれば重いお仕置きとなる」
「へい。畏れ入りましてございます」
畏まる煮売り屋台の男にそう言い置いて、一之進は件の侍の後を追った。
三間ほど間を開けて先を行く紋付きの羽織を眺める。侍は相変わらず泰然と歩いていた。用事を急ぐようには見えない。かといって物見遊山を楽しんでいる風でもない。怪しい素振りはない。だが、先ほど目の前で起こったことが一之進の目を侍から侍から離せなかった。
向かいから賑やかに言葉を交わしながら連れ立った男たちが近づいてくる。
「おい、今度の細見にはどうあるんだい」
「待て待て。そう急かすない」
「お前ぇの調子じゃあ日が暮れちまうぜ」
「何言ってやがる。日が暮れりゃぁ張見世で眺められるんだ。却って好都合ってもんだぜ」
「ああ、違ぇねぇ違ぇねぇ」
中央を行く男が手元で開く横本は、先だって版が改められた吉原細見なのだろう。恐らくこの男たちは登楼が目的ではなく、素見で見世の女郎を冷やかしに来ているに違いない。
「おいおい。交ざり見世で山形に一つ星ときたもんだ」
「そりゃぁまた随分と格が上がったもんだ」
「全く。白粉剥げ散らかしたのが昼三とは畏れ入るぜ」
「はっ。聞いたような口利くじゃねぇか。この半可通が」
「やかましいやい。お前ぇこそ二階で小便したこともねぇくせに偉そうに言うんじゃねぇや」
「けっ。惣花を打ったことがねぇ奴に言われかねぇやな」
吉原雀と呼ばれる素見の冷やかし客たちは辺り構わず姦しく囀って、横並びにこちらへとやって来る。誰一人己の行く先に注意を向ける者はいない。
並び矢筈の侍は足を緩めない。男たちは相変わらず見世と女郎の話に熱を入れたまま進んでくる。このまま行けば双方ぶつかる。ぶつかれば厄介だ。町人とは言え徒党を組めば侍相手に啖呵の一つも切るだろう。言うだけ言ってきっぱりと立ち去ればいいが、余計な一言が武士の沽券に関わり引くに引かれぬ意地を通さねばならぬところまで行き着くやもしれぬ。さて。どうしたものか。
一之進の懸念はまたしても裏切られた。一瞬のことだった。気が付けば男たちに衝突すると見えた侍の身体は、するりと集団を抜けてその背をこちらに向けたまま歩き去った。
「おっと。危ねぇ危ねぇ」
呆然としている一之進の前まで来た吉原雀の一人が声を上げる。その声に集団は二つに割れて棒立ちになった一之進の左右を流れた。
「このとんちきどもが。熱くなって周りが疎かになってんじゃねぇ。危なっかしくてしょうがねぇな」
「へへ。旦那。お勤めご苦労さまにございます」
町人の会釈に頷いて返す一之進だったが、その眼差しは先を行く侍の背にしっかりと向けられていた。
町人の一団は一之進とすれ違ったように左右に割れて羽織袴の侍を通したのではい。侍も進路を曲げて吉原雀たちを躱したわけではない。気が付けばただ当たり前のように男たちと侍の立ち位置が入れ替わっていた。
この侍は一体何者なのだろう。如何なる足法を取ればこの様な真似が出来るのだろう。まさか狐狸の類いではあるまい。ではこの身のこなし盗賊の軽業か何かなのだろうか。一之進は眉根を寄せた。
町奉行所からの申し送りに留意すべきお尋ね者の指示はない。関八州廻りからも江戸表に盗賊一味が入り込んだとの話も聞こえて来てはいない。盗人の変装の類いではないのか。それとも御公儀の目をかいくぐった賊がいるのだろうか。
一之進が考えを巡らせる間に、羽織に染め抜かれた源氏輪に並び矢筈の紋が、つ、と路地を曲がって建物の陰に隠れた。足を速めて後を追い、侍の曲がった辻まで急ぎ来た一之進だったが、確かにこちらに来たと見えた羽織袴姿はどこにもなかった。
何とも狐につままれたような心地だった。はて。今日は郭に社を構える九郎助稲荷の縁日だったか。まさか九郎助稲荷にからかわれたのではあるまいな、などと愚にも付かない思いが一之進の胸に湧いて出た。
いや。流石にそれはない。既に日は暮れかけ辺りは暗くなりつつある。夜目は利かぬ方ではないが、きっと薄暮の弱い光で見間違えたに違いない。一之進はそう断じて元来た道を歩きだした。
江戸町一丁目の筋を行き、一通り見回ったところで顔番所へ戻ろうかと思い始めた時である。
「むこうのひと。むこうのひと」
何やら切迫した声を上げて禿が二人通りを行き交う商人たちに纏わり付くのが見える。事情の飲み込めない様子の人々はただ戸惑うばかりのようだ。やがて禿は一之進を認めると頭の花飾りを大きく揺らし、着物の裾を踏んで今にも転ぶのではないかという勢いで駆け寄ってくる。息も切れ切れに一之進の元へ辿り着いた禿たちは、袂をひっしと掴んでぐいぐいと引き始める。
「おい。お前たち。何事か」
そう問う一之進に間髪入れず必死の形相で幼気な声が叫ぶ。
「おいらの姉さんが。おいらの姉さんが」
「やかたものが。やかたものが」
「はようこちらへ。はようはよう」
必死に袖を引く禿に誘われ己も禿たちも転ばぬよう慎重に足を進めれば、人集りが目に入る。あれは大見世の萬屋の前か。野次馬の作った人垣の隙間から見世の若い者に侍が三人食って掛かっている姿が見える。
長身、中肉中背、太り肉の短躯と背格好はまちまちだが、揃いも揃って杓子定規に火熨斗のきいた羽織袴で身を固めている。三人並んだその鯱張った有様にふと大中小と並んだ人形を思い浮かべる。申し合わせたわけでもあるまいに今日は羽織袴の多いことよ。一之進は騒ぎを眺めながら思った。
「だから綾松に会わせろと申しておる」
「へえ。ですから花魁はどちら様にも御目に掛かれないんでございます」
「何故だ。訳を申せ」
「訳と申しましても」
「金か。まだ足りんと申すか」
「我らがこれまで一体幾ら渡してきたと思っておる」
「そう仰いましても。郭には郭の仕来りがございまして……」
押し問答の最中、長身の侍が連れの二人に低い声で囁く。
「おい。もう暮れ七ツ半は過ぎるぞ」
「分かっておる」
短躯の侍の顔から色が失せる。目を泳がして暫し逡巡した様子だったが、思い切ったのかこれまでより大きな声で怒鳴る。
「もうええ。どけ」
「ご容赦下さいませお武家様」
「ええい。どけいや」
「どけ言うとる」
「我らにはもう猶予がないが」
えらく焦った様子の侍たちに苦笑いを禁じ得ない。確かに猶予はもうなかろう。どこかのお国訛りが口を突いて出た様子から、恐らくこの侍たちは故国から上った殿に付き従い江戸に詰める勤番武士と見える。ならば住まいは藩の組屋敷、暮れ六ツを刻限として木戸は閉められそれ以降の出入りは制限される。遅れて戻ったとしても罰せられるわけではないが、門限を破った理由は問われるだろう。正当な事由ならばいざ知らず、流石に吉原通いが理由ともなれば面子も保てまい。焦るのも道理というものである。
「綾松。綾松っ」
「えい。推し通れ」
「お止め下さいお止め下さい」
「邪魔立てするな」
若い者の懇願もけんもほろろに聞く耳持たず侍たちは妓楼に押し入ろうとする。人集りのそこかしこから、引っ込め浅黄裏、田舎に帰れ、と野次が飛ぶ。さてどうしたものか。事態を見守る一之進は事の落としどころはどこかと思案した。
町方としては今のところ手出しは出来ぬ。相手が大名の家臣ならば乱暴狼藉を働いたとしても即座に捕縛することは分不相応な行いである。例え人を殺めたとしても氏素性を確かめた後、奉行を通じて大名家へと次第を通達、処断は知らせを受けた藩の法度に従って先方で行うべきものである。精々ここはこれ以上大事にならぬよう宥めるくらいしか手はないのが実情だった。
「ご容赦願えませんかお武家様」
柔和な声が聞こえた。暖簾を潜って妓楼の出入り口より恰幅の良い初老の男が現れ、侍たちの前に立った。
「何者だ。そなたは」
「へえ。手前はこちらの主、萬屋惣右衛門にございます」
きっちりと鬢付け油で調えられた白髪交じりの頭が、重ねた掌を膝にやって深々と腰を折る。
「手前どもの若い者が申し上げました通り、花魁はどなたにも御目に掛かれぬのでございます」
「惣右衛門とやら。何故だ。会えぬのならば訳を子細に申せ」
「ただただ断るだけでは納得がいかん」
「身共らは年が改まれば殿に従って国元へ戻らねばならぬのだ。江戸屋敷常駐の留守居役ならばいざ知らず、日参の叶わぬことになるのだ」
「恥を忍んで言うが、金子とて中々融通は利かんのだ。年に三回頂戴する御切米を削りに削って用立てておるのだ」
「それでもやっと身共ら三名合力して揚代一人分を捻り出してきたのだ。一度に三人相手をせよとは申しておらん」
「これこの通り頼んでおる」
相手が主と知ってか力押しではなく内情を吐露し説得に掛かった侍たちであったが、惣右衛門は和やかながらも毅然として言い放つ。
「申し訳ございません。いかなお相手が百万石のお殿様であろうともお通しすることは致しかねます」
「何をっ身共らを小藩と侮るかっ」
「いえ。左様ではございません。あくまで例え話。花魁はここ二十日ばかり臥せっておりますれば、会わせることは出来ぬのでございます」
「臥せっておるだと? 流行風邪か」
「臥せております理由は手前の口からは到底申し上げられるものではございません」
「申せぬと? 仮病ではないのか」
「いえそのようなことは」
「きちんとした申し開きが出来ぬとあれば仮病であろう」
「そうではございません」
惣右衛門は腰低く侍に近づき手を口の横に添えて低い声で言った。
「……行水にございます」
騒ぎを取り巻く野次馬からどっと笑い声が上がる。侍は暫し呆けた表情になり互いに顔を見合わせる。
「行水だと? この寒さでか」
「床に伏した者が行水などするものか」
「戯けたことも大概に申せ」
惣右衛門は再度両手を前に深々と腰を折り、背筋を伸ばすと噛んで含めるように言った。
「お武家様におかれましては、手前ども郭の者の使います賤しい言葉がお分かりにならぬのも道理でございます。行水と申しましても月のもの、赤不浄にございます」
「な」
「赤不浄と」
侍は一斉に口をつぐんだ。
「どうぞここは月役七日と思し召して、またの日にお越し下さいませ」
侍たちが致し方なしといった風情で目配せをし合い、ばつが悪そうに立ち去るかと見えたその時、先ほど笑い声を上げた取り巻きからまた野次が飛んだ。
「おいおい初心いこったぜ」
「おぼこ娘も真っ青だなぁ」
「月のものが二十日も続くものかい。傑作だぜこりゃぁ」
再びどっと上がった笑い声に侍たちが気色ばむ。余計なことをと言わんばかりに声の出所の方へ険しい目をやる惣右衛門に侍が怒号を浴びせかける。
「主っ貴様謀ったかっ」
「嘘を申したか下郎」
「我らを愚弄するかっ」
怒鳴り声と剣幕に怯えたか、一之進の両脇で袖を握る禿が身を震わせ幼気な声で泣き始める。血が上り火に灼けたかと見紛うばかりの真っ赤な月代が並んで惣右衛門に掴み掛からんと迫る。惣右衛門の衿に侍の手が掛かろうとしたその刹那。かっ、と石が木を打つような音が響いた。
から、かつ、から、かつとゆっくり間を開けながら音が鳴るにつれ、見世の暖簾の向こうから打掛の裾から覗く黒塗りの高下駄と、その上で見事な色の対比を見せる白く滑らかな足が近づいてきた。
「すかないことを申しんすなぁ」
はっとして見世の若い者が暖簾を左右に分けて掲げ、惣右衛門が身を翻して脇に退く。立ち現れたのは何れの高名な絵師の手でも描ききれぬであろう薫るばかりの姿だった。
そこかしこで点り始めた行灯の灯りに浮かび上がるのは、頂きに蒔絵の施された櫛を三枚、一点の斑もない白甲の簪を左右にそれぞれ前挿二本、後挿六本を挿した横兵庫、雪より白い細面に切れ長の目、通った鼻筋。涼やかな鈴の音さえ聞こえてきそうな凜とした面立ちがこちらを向いていた。
「花魁……何故表などに。控えなさい。部屋へ戻りなさい」
惣右衛門の呼びかけに軽く頭を傾けて応じると、笹紅を差した玉虫色に輝く唇が開いて奏でるように声が流れた。
「あやめ。さくら。来なんし」
名を呼ばれた禿が一之進の袖を離して、とと、と駆け寄る。
「人前で泣くのは止しなんし。すぐに夜見世になりんす。部屋で支度しなんし」
ぴしゃりと言った花魁だったが、縋る禿の頭に置かれた手は優しげだった。目を潤ませてしゃくり上げるの禿たちだったが、殊勝にも、あい、と返事をすると若い者に連れられ奥へと引っ込んだ。
「綾松。やはり臥せってなどおらぬではないか」
低く唸る太り肉の侍に綾松は少し顎を上げ目を細めると、高下駄の上から三人を見下ろす形となった。ちらと一瞥だけして打掛の裾を取った綾松は、ゆるりと足を動かし気持ち横向きになり空を見上げて嘯く。
「今宵も星が高うありんすなぁ。夕もじからいこう冷えしんす。たんと炭を焚いてくんなまし」
そう若い者に声を掛ける綾松に侍が更に問う。
「月のものなどと口から出任せを。臥せっておる者が何故ここにおる」
「臥せっておりんしたのは誠でありんす。嘘など申しんせん」
「立って歩けるならば我らの相手も出来よう。四半刻も掛からん。早速案内せい」
間髪入れず綾松は返す。
「まっぴらごめんざんす」
豆鉄砲を喰らった鳩もかくやといった顔で一瞬口をつぐんだ侍が引きつった笑い混じりに言葉を吐く。
「言うに事欠いて何を」
「何が気に喰わんのだ」
袱紗包みを差し出す侍を横目で捕らえた綾松は、意に介せずといった風情で視線を外すと惣籬に向き合う。
「清掻はまだ鳴りんせんかぇ? 早う賑やかなのを聞かせてくんなまし」
「綾松聞いておるのかっ」
必死に訴えかける背の低い侍が何やら哀れにも思えてくる。そろそろ何とか取りなすなり何なりせねばと一之進は思った。見世の若い者もあきれ顔、野次馬も田舎侍の無粋ここに極まれりといった雰囲気で冷笑している。今でさえ相当見苦しいが、これ以上粘ろうとしても余計恥の上塗りとなり目も当てられなくなるだろう。
「金子ならばこれ、この通り」
袱紗包みを取り出し差し出す侍の姿に一之進は思わず顔を顰めて深く息を吐く。葛根湯を含んだときのように何とも苦いものが口いっぱいに広がる。
「ああ。こはばからしゅうざんす」
綾松は伸ばすような口調で溜息交じりに言い捨てる。
「とのたちはそんな一包みで片付くと思いんすかぇ?」
「何だと」
「足りんと申すか」
「しゃれなんすな。揚代の話などしていんせん。わっちはまことを違えるしんござの顔など見たくもありんせん」
「誠を違えるだと?」
「武士が誠を違えるものか」
向き直り、つい、と綾松が侍たちに一歩踏寄る。
「とのたちはわっちの妹振袖新造に言い寄りんした。知らぬとはおっせえすな」
「そ……それは」
「わっちの身は一つしかありんせん。相方できぬ時もござりんす。それでは退屈でありいしょうから話し相手にと妹を名代にしんした。それを口説いて手を付けようとは何の誠とおっせぇす」
辺りから冷ややかな声が上がる。
「おい聞いたかい。とんだお侍ぇだぜ」
「不実だねぇ」
「いやお武家だろうが構やしねぇ。倡家の法式だぜ。散切りだ散切りだ。髷を切り落としちまえ」
「おう。面に墨塗っちまえ」
「大樽に放り込まれて晒し者になっちめぇ」
野卑た笑いに侍の呼吸が大きく乱れる。そこに畳み掛けるように綾松がきっぱりと言い放つ。
「わっちらぁ、ちょうど三分の女郎でありんす。よたろうの相方はいたしんせん。早ううっぱしってお帰りなんし」
きっと見据えて花魁が見得を切る。芝居ならここで大向こうから声が掛かろう見栄だが、啖呵を切られた侍は堪ったものではなかろう。一之進の耳に、ぎぎぎ、と固い物が擦れ合わされる音が入る。軋む音はわなわなと肩を震わせる侍の頬から発せられているようだ。
「おのれ……言わせておけば」
短身の侍が歯軋りを止めて遠雷の如く唸ってやおら花魁の纏う打掛に腕を伸ばす。
「おい」
「止さぬか」
色を失った同輩を些かまだ平静さの残る二人が窘めるが、聞く耳も持たぬとばかりに短躯が綾松に掴み掛からんとする。
「女っそこに直れっ」
節榑立った指が花魁の肩口に届くかと思われたその時、通せんぼをするかのように侍の鼻先、拳一つほどのところに何かが突き込まれた。侍が、く、と短く唸って身を引けば、それに合わせて距離を崩さずついと追い来る。やがてぴたりと止まったそれは、径一寸ほどの木の丸棒だった。
「そのくらいになさいまし。お侍ぇさま」
声のする方を見遣れば六尺ほどの棒の中程を握り腕を伸ばした男が立っている。ゆっくりと腕が引きつけられて脇に挟まれた棒が後ろに滑り、草履が地擦りの音を立てる。やがて男は下がる侍と綾松の間に立つや手首を返して、かつ、と棒を立て、睨みを利かせて仁王立ちになった。
烏のような男だ、と一之進は思った。藍鉄の角帯を締めた太物は黒、その上から羽織った長半纏も黒。そればかりではなく黒い股引の足元に巻いた脚絆も黒い。無造作に束ねられた総髪の下から浅黒い顔が抜け目なく辺りを伺う。上から下まで黒ずくめの姿で一点だけ、右の顳?から一条垂れた後れ毛が白く異彩を放っていた。
「何奴……」
黒ずくめの男を見据えて侍が誰何する。男は臆することなく見つめ返して答える。
「四郎兵衛会所の鬼黒でござんす」
本名ではなく通り名であろうが、この男、身形だけではなく名前まで黒ずくめかとその懲りように一之進は嘆息した。四郎兵衛会所の者は女郎が足抜けせぬよう見張るのが常日頃だが、時には郭のよろず揉め事を収める用心棒も買って出る。鬼黒なる若い者も恐らく騒ぎを聞きつけて駆けつけたのだろう。
「ここは通人が粋に遊ぶところにござんす。如何にお武家さまといえども、大声で喚き立て好き放題していい場所じゃぁござんせん」
暫し睨み合う黒ずくめと羽二重であったが、やおら袴の足が前へついとでる。それを見て六尺棒が傾きその先が月代も青い侍の鼻先で止まる。横へと身を躱しなおも行こうとするとそれに合わせて棒先も動く。二度三度と繰り返されて業を煮やした侍が棒を払おうとすれば、燕もかくやという素早さでそれを躱して上下左右へと流れ行く。
「鬱陶しいっ」
背の低い侍は苛々を募らせ棒を奪おうと飛び掛かる。鬼黒は平然と棒を繰って侍の袖を絡め、腕の動きを封じるとそのまま前へと歩み出す。腕を取られて後ずさる侍と共に人垣が動く。見世先を離れ通りの中程まで侍を押した鬼黒が手首を回して袖絡みを解けば、侍の体はわずかに蹈鞴を踏んで止まる。
いかん。これは些かやりすぎだ。一之進の顔から血の気が引く。足を踏ん張った侍の体が沈み込む。その腰元で、ちん、と金属の弾ける音がする。一之進がしまったと思ったときにはもう遅かった。侍の袖が翻り鞘より白刃が抜かれた。
切っ先が鬼黒の顔に向く。何ということか。一之進は頭を抱えた。一度刀を抜いてしまえば、刃を向けた相手を斬らねば元の鞘に収められぬのが武士の倣いというもの。もうこうなれば侍は引くに引けぬ。今日番所で立った茶柱はこの凶事の前触れだったか。一之進は咄嗟に角帯を絞めた腰の後ろに手を回す。手応えなく師走宵の冷たい空気を握った右手に一之進は歯噛みする。今は隠密廻りの着流し姿、いつもならばそこに挿しているはずの十手は番所に置いてきてしまっている。
「無礼である」
抜刀した侍が凍てついた声を発する。怒気はすっかり鳴りを潜め冷酷なまでの殺気が漲る。
「御無体ですぜ」
落ち着いた声で応じながら鬼黒は六尺棒をゆっくりと辺りに巡らせ、野次馬の囲みを遠ざける。双方間合いを計って対峙し相手の一挙手一投足に目を凝らす。見ている誰もが固唾を呑んで息を潜める。
侍は両腕を上げ得物を右上段に構える。鬼黒は棒の端三分の一ほどを後ろに残して握った右手を腰に引きつけ、その一尺ほど前を左手で握って脇を締める。対峙する二人の間合いでは六尺棒を持つ鬼黒に一分の利があるが、侍の手にする真剣の刃は一撃で相手の命を容易に絶ち斬る。
そう値踏みしてか先に仕掛けたのは侍の方だった。
大きく踏み込んで侍が斬り掛かる。振り下ろされる白刃が黒い長半纏に達するかに見えた瞬間、鬼黒は左へ身を翻し斜め上から棒を振り落とす。小手を打ってそのまま右へと流せば侍の刀は狙いを失い鬼黒の脇で空を切る。ならばと切っ先を左に向けて侍が右へ薙げば鬼黒は棒を引いて左足を踏み出し体重を前へ掛ける。握る左手の中を右腕に押し出された棒が滑り、その先が素早く侍の喉元に突き込まれる。
侍の体が崩れ膝を折る。鬼黒は油断なく棒先をしゃがみ込む侍に据えて右腕を上げ、後ろ一尺を残して掌を天に向けて握り直して大きく斜めに構える。肩を上下させて喘ぐ侍が立て膝のままなおも刀を振るおうとする。
鬼黒の六尺棒は容赦なかった。逆手に握った右手に押し出された棒の先が侍の額を強く突く。突いたその手を僅かに引いて素早く右手を肩口に引きつければ、左手を軸に棒の先が大きく跳ね上がる。顎を打ち掬われた侍の短躯が後ろに仰け反りどさりと倒れた。
見事な手際だと一之進は嘆息した。侍も決して弱いわけではないが、真剣を向けられ一歩も怯まないその胆力、巧みに六尺棒を操るその膂力、この男ただ者ではない。しかし確かな手筋ではあるがこの棒の繰り方は些か妙な気がする。一体どこがおかしく感じるのか。違和感の正体を探る一之進の思案はそこで止められた。
天を仰いだ侍の両脇で鍛鉄が白く煌めく。朋輩を倒され連れの二人もついに抜刀したのだ。正眼に構える二振りの刀を目にして今度は鬼黒が先に動いた。
棒の中程に手を揃えるように持ち替え天秤棒のように勢いよく傾ける。跳ね上がった右端は右より来ようとする侍の両腕を跳ね上げ、大きく下がった左端は左の侍の両手首を捉え下に押し込み構えを崩す。次いで肩幅に持ち替えて右手を引きつけ左手を前に押し出せば、構えを下げられた侍の鼻が強く打たれる。左手を引きつけ右手を前に押し出せば両腕を高く掲げた侍の肋に一撃が入る。
間を開けず迅雷の如き手筋が閃き追い打ちを掛ける。右下より繰り出された棒が上を向く侍の臑を強か打ち据え、ひらりと返され突き込まれた逆の端が顎の急所を強打する。右の侍が倒れかかると同時に顎を打った棒先が翻って左の侍の盆の窪を叩き、上体を右に捻り大きく後ろに引いて反動を付けた渾身の突きが左の侍の脇腹を襲う。
長身と中背、二人の侍がほぼ同体で倒れる。瞬きをする間もない出来事だった。鬼黒は息一つ乱した様子もない。武士の魂である刀を取り落とすことこそないが、足元で侍たちは呻きを漏らすばかりである。取り巻きが快哉を叫んだ。一之進はただ眉根を寄せるだけだった。
この始末をどう付ける。一之進は思った。野次馬の群れは追い散らせば済む。しかしこの侍たちをどうする。幸いにも人死にはない。侍の刀は誰一人として斬ってはいない。この四郎兵衛会所の若い者とて相手を殺めたわけではない。だが町人が武家を打ち据えてそのまま済ませるのでは理に反する。
ただ見ているしかできなかった自分は何をどうなすべきか。一之進は逡巡した。何れにせよ捨て置けぬ。その場より一歩踏み出した一之進だったが、えも言われぬ気配を感じ思わず足が止まった。
純然たる殺意だった。はっと目を配ってその強い殺気の源を探れば、振りかぶられた刀が背後から鬼黒を斬り捨てんとするのが見えた。最初に倒された侍は武の道をかなぐり捨て、卑怯との誹りも省みずただ意趣を返さんとしていた。
鬼黒が気付いた様子はない。この期に及んで刃傷か。一之進の体が前に飛んだ。抜く間はない。しかし止めねばならぬ。その間にも侍の刀は鬼黒の背に迫る。ままよ。一之進は間に割って入り姿勢を低くして、握った手が鍔を押して刀身が鞘走らぬよう切羽を取って差料を前へと滑らせた。
手応えはない。しくじったか。このまま己ごと鬼黒は斬られるか。そう観念した刹那、頭越しに白い影が飛んだ。
矢のように飛んできたのは一本の白扇だった。扇の緘尻が音を立てて侍の眉間を打つ。怯んだ侍が額に手を当て俯いたと同時に斬り掛かる勢いが削がれる。その一瞬を逃さず更に繰り出した一之進の刀の柄頭が侍の鳩尾に食い込む。喉から呼気が塊となって吐き出される。漸く気配を感じた鬼黒が振り返る。事態を素早く飲み込んだのか目に狼狽の色が差したが、それは一瞬のうちに消えた。
弛緩して前のめりにもたれ掛かる侍の肩に手を添え座らせながら一之進が振り向けば、四間ほど離れたところに立つ男の姿が見えた。右手を挙げ手刀を掲げる姿勢でこちらを見据えているのは、先ほど路地で見失った並び矢筈の紋付を纏った侍だった。
白扇を投げ窮地を救ってくれたのはこの御仁だったか。一之進はそっと黙礼した。一之進と目が合った並び矢筈の男は柔和な表情をした。男から返礼はなかったが、掲げた手を下ろした顔には一之進と鬼黒の無事を確と見届けたと言わんばかりの頼もしさが滲み出ていた。
並び矢筈の侍が動く。今し方起こった大立ち回りを取り囲む野次馬を迂回しそっと妓楼の方に近づく。総籬に辿り着いた侍は、進み出た一人の振袖新造と格子越しに二言三言言葉を交わし軽く頷くとそのまま立ち去っていった。その背を目で追いつつ一之進は力なく座り込んだ狼藉者の耳元で囁く。
「もうその辺りにされよ。これ以上恥の上塗りをなさるつもりか」
言われた短躯の侍はただ項垂れているばかりで応えなかった。一之進はその肩から手を離し、並び矢筈の侍が残した白扇を拾うとやおら立ち上がった。身を返してみれば、矢継ぎ早に六尺棒で倒された侍たちが身を起こし刀を鞘に収めて覚束ない足取りでこちらに歩いてくる。最早試合う気力など欠片もない様子だった。
侍たちは脇へ身を避ける一之進を一顧だにせず膝を屈した朋輩の刀を拾い鞘に収めてやると、肩を貸して立たせふらつきながらその場を後にした。
「では。おさらばえ」
覚束ない足取りで遠ざかる後ろ姿に鬼黒は嘯いた。しばらくは侍たちの背中を睨み付けていた鬼黒だったが、やがてその視線を、つい、と一之進に向けた。
微動だにしない鬼黒からの視線を受けて一之進は口を開き掛けるが、瞳に湛えられた周り全てのものを凍てつかせるような光に気圧され言葉を発することが出来なくなった。沈黙が二人の間を支配し、ただ見つめ合うばかりで時が過ぎた。やがて鬼黒は顔を横に向け口元に、ふ、と冷たく乾いた笑みを浮かべると六尺棒を肩に一之進に背を向け歩き去った。
何れにせよ事はこれで収まった。刃傷沙汰には及ばず妓楼萬屋の主にも花魁にも大事はない。些かこちらに累が及んだが湯飲みの中に立った茶柱の引き連れてくる凶事というほどではない。一之進はそう自分に言い聞かせた。
狼藉者の侍たちは去った。それを打ち散らした四郎兵衛会所の男も去った。観衆も三々五々に散っていく。だが。一之進は己の手に残った白扇を見つめた。尋常ならざる身熟しを見せ、一度消えたかと思わせつつも何処からともなく現れ窮地を救った並び矢筈紋の男。一体何者だろうか。確かめてみたい。
その衝動に突き動かされ一之進は萬屋の見世先を離れ、紋付きの羽織を追うべくその去った方角へ足を急がせた。
かり、と高下駄が微かな音を立てる。一部始終を見ていた花魁綾松は張り詰めた気が抜けたのか、少し膝が緩んだ。透かさず主惣右衛門がその体をさりげない風を装って支える。
「花魁。なぜこんな無茶を」
惣右衛門が声を潜めて綾松に囁く。綾松の結い上げた髪の生え際から冷たい汗が一筋流れる。外からでは誰も気付きはしなかったが、白粉に塗り隠された顔は酷く上気している。ともすれば荒くなりそうな息を整え綾松は囁き返す。
「とんちきなしんござに一言言いたくなりんした。それに可愛いさくらとあやめを放ってなどいられんせんわぇ」
気丈に振る舞おうとしているのか綾松の声は微かに震えていた。
「感心できませんな」
萬屋の戸口に佇む綾松と惣右衛門に声が掛かる。
「これは……玄斎先生」
「まだ寝ておらねば下がる熱も下がりませんぞ」
剃髪に羽織を着て何段もの引き出しの付いた小箱を下げた男が諭すように綾松に言う。
「あい……」
「失礼」
玄斎と呼ばれた男は手を伸ばし綾松の手首を取るとしばらく握った。
「ふむ。矢張り脈も乱れております。これはいけません」
玄斎は手を離し綾松に言う。
「惣右衛門殿。そろそろ薬湯が切れる頃と思って来てみればこの有様。無理は禁物と申しましたな」
「申し訳ありません玄斎先生。何分急なことでして」
惣右衛門は恐縮する一方だった。
「とにかく早く部屋に戻した方が良いでしょう。早速薬湯を煎じて差し上げましょう」
「ありがう存じます。さ。花魁。玄斎先生もどうぞ」
惣右衛門は綾松の手を取ると暖簾の内に誘う。綾松も人目を気にしてか努めて背を伸ばし普段と変わらぬ様子をで高下駄を滑らせる。後に付き玄斎が進み行く。その姿がゆっくりと土間の奥に消えると籬の奥で鈴が鳴った。
それを合図に灯りの点った張見世に振袖新造たちがいそいそと進み出でて並び始める。格上の者は中央寄りに、格が下がるに従って左右に分かれて絢爛たる衣装の袖を延べて座っていく。一座の真ん中、緋毛氈の敷かれた場所はいつまで経っても空席のままだった。
夜の帳が降り行灯が明々と照らされた郭に浅草寺の暮れ六ツを告げる鐘が響く。花魁の姿を欠いたまま三味線が清掻を奏で始める。こうして何事もなかったかのように夜見世は開き、郭はいつものように両腕を開いて男たちの訪れを今宵も誘い招く。
しかしこの時、白扇を投げた男を追って去った一之進はまだ知らなかった。湯飲みの中に立った茶柱が暗示したのは、見世先で起こったいざこざ程度ではないのだということに。
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