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(五)
 早速これだ。饐えた臭いを感じて鬼黒はそう思った。
 匂いは郭の中央を貫く仲の町から離れ、鉄漿の残り水を流したように黒く澱むどぶに近づくにつれて濃くなっていく。この鼻の中に纏わり付く生臭い匂いは河岸の朝方の匂い、安い油で一晩中行灯の明かりを灯した夜の残り香だ。
 夜を知らない郭の表通りでは日が暮れてから空が白むまで常に誰哉行灯が灯される。不寝番が火を絶やさぬように一晩中継ぎ足しするのは菜種油であって、炊けば酷い臭いの出る安物の鰯油などではない。
 郭の暮らしもピンからキリまで。一万人とも言われる吉原の住人は、それぞれが己の置かれた場所でそれ相応の日々を営んでいる。張見世に女郎を並べて男たちを誘う大見世や中見世小見世からは常に華やかさと煌びやかさが漂う。客から見えない部分には相当に闇深い部分があるのだが、例え見せかけの光であったとしても、光の当たるところで生きていることに変わりはない。
 その一方で廓の中に棲まう人相手に商いを行う職人や商人の堅気な営みもある。品や材を仕入れそのままの形で、あるいは縫製、細工、調理を経て求めに応じて売り利鞘を稼ぐ。これは廓の外に住む商人、職人と何ら変わることのない、市井のごく普通の暮らしぶりである。
 鬼黒は立ち止まり、郭の東端に伸びる羅生門河岸を眺めた。華やかさなど一欠片もない色褪せた風景がそこにはあった。ここは同じお天道様の下でも大違いだ。鬼黒の眼に哀しみの色が湛えられる。
 郭が苦界というならば、河岸は苦界中の苦界、これ以上は落ちようのない奈落の底。吹き溜まる女たちは決して余所では生きられない、生きようのない者ばかり。
 七つで禿、十四で水揚、突出しで客を取るようになって振袖新造から部屋持、座敷持と格を上げて上り詰めれば呼出し昼三、年期十年無事明ければ概ね二十七。その間は廓の中に囲われて外の暮らしなど知りようもない。年季が明け故郷に帰っても鍬一つ菜切り庖丁一本振るえない身となればただ疎まれるだけ。どこかのお内儀に収まったとしても、郭で磨り減った身体は子種は受けられても子を為すことは叶わない。
 そうして浮河竹の身の上から脱した女が元の泥水稼業に舞い戻る。
 とはいうものの元の見世には戻ろうにも戻れない。若くて煌びやかな玉ならいざ知らず、錆の浮いた三十路女を買いたがるお大尽などいない。番頭新造や遣手になれれば妓楼に居場所が出来るが中々そうは問屋が卸さない。それでも女たちは生きるために躰を売るより外に術がない。羅生門河岸も西河岸も廓の両端どん詰まりならば、そこに身を置く者もこれより先は落ちるところのないどん詰まりにいるのだ。
 また鰯油を炊いた臭いが鼻を突く。
 あのまま故郷で安穏と暮らせていたら、俺はこの臭いを嗅ぐことがあっただろうか。ふと鬼黒は思いを巡らせる。河岸の女たちほど落ちたとは言いたくはないが、この身が浮き草の如く流れ流れて吉原に辿り着かねば一生嗅ぐことはなかったかも知れない。記憶の中で蝋燭の明かりが点る。もう随分とその贅沢な明かりを目にしていない。黙したまま被りを振り、鬼黒はその明かりを吹き消した。
 そんなことを思っても詮ないことだ。口の端に皮肉な笑みが浮かぶのを感じながら、鬼黒は路地に掘られたどぶを跨いで、長屋のように連なる狭い局見世の一間に足を向けた。
「御免よ」
 鬼黒は開け放つでも締め切るでもなく、中途半端に隙間を作る戸に声を掛けた。返事はなかったが構わず戸を引き二尺四方ほどの狭い土間に入る。朝のこの時分ならば客もいるまい。そもそも客がいるなら中が覗けぬよう戸はぴったりと閉まっているはずだ。そう踏んでのことだった。
「どちらさんだい?」
 所々薄茶色の染みの付いた低い衝立の向こうから、気怠い女の声がした。
「済まないねぇ。お相手は勘弁しておくれよ」
「いや。客じゃねぇ。俺ぁ四郎兵衛会所のもんだ」
 衣擦れの音がしてのろのろと甲に骨の浮いた手が覗くと、衝立を引いた。夜具の上にしどけなく体を起こした年増女が胡乱な眼差しを鬼黒に向けていた。
「会所の兄さんがあたしに何の用だい? あたしは兄さん方に迷惑掛けるようなことは何もしちゃいないよ」
 年増女は横座りになり襟元を合わせ直すと、顳?から垂れた結髪の後れ毛を撫で付けて流し目を寄こした。
「会所の用じゃねぇんだよ。済まねぇ。ちょいといいかい?」
 鬼黒は戸を閉めると框に腰を下ろした。流石に二畳ほどしかない部屋に上がり込むのは躊躇われた。どのみち長居をするつもりはない。
「なぁ姐さん。こいつに見覚えはねぇかな。あれば教えてもらいてぇんだが」
 鬼黒は懐から小布の包みを取り出し、掌の上で包みを解いて中身を年増女に見せた。
「何だい。細工物かい? 随分と草臥れてるじゃないか」
 女は遠目に一瞥して気のない返事を寄こした。
「よく見ちゃぁもらえないかい。心当たりはないかい?」
 鬼黒の言葉に促され、差し出された小物を眺めていた女の目がほんの一時細められた。つ、と引き締められた口元がまた元の柔らかさを取り戻す。
「それはあたしのじゃないねぇ」
 読み捨てた文を投げ出すような声音で女が言う。
「そりゃそうだ。こいつはあんたのもんじゃない」
 鬼黒は片眉を上げて女を見た。女は特に悪びれる様子もなく澄ましている。外れ籤を掴まされるのはいつものことだ。また他を当たれば良い。鬼黒はそう見切りを付けた。
「知らねぇんなら仕方がないさ。手間ぁ取らせたな」
 そう言って框から腰を上げ背中を向けた鬼黒に女の声が覆い被さる。
「あんた。そいつの片割れを探してるんだね」
 その言葉を聞いて鬼黒は目を見開く。振り向けば女は首を傾け横座りのまま気怠げに鬼黒を見ている。その唇の端に微かな笑みが浮かんでいた。
「あんた、そんな態をしてるけど元は侍なんだろ? 大仁田新九郎。それがあんたの本当の名なんじゃないのかい?」
 鬼黒は目を見張った。この女何をどこまで知っている。女を見る鬼黒の目が険しくなる。
「あんた何者だよ」
「兄さん。そう恐い顔で睨むもんじゃあないよ」
「簪をどこで見た。どこで知った。持ち主はどこにいる。それになぜ俺をその名で呼ぶ」
 まくし立てる鬼黒を見て女は、ふふふふ、とさも愉快そうに笑う。
「何だい。兄さん。金を握って初めて郭に来た手代みたいながっつきようじゃないか」
 女の口から鉄漿水で染められた黒い歯が零れる。鬼黒の顔が口を引き結んで眉間に皺を刻む。
「座りなよ。話してやるからさ」
 女が軽く顎をしゃくって鬼黒が腰を上げた框を指す。鬼黒は黙したまま女を睨んで値踏みした。ただで済むとは思わない。女が求める見返りは如何ほどのものか。
「やだねぇ」
 女はころころと喉を鳴らした。
「金なんて取りゃぁしないよ。こんなとこにいてもあたしはそこまで落ちちゃあいないよ」
 鬼黒の腹の中を見透かしたのか女はそう言って再び框に腰を下ろすように促した。
「白湯でも飲むかい?」
 女は腰を上げて布団の上を立て膝で火鉢まで躄った。炙る火のない鉄瓶が持ち上げられ見栄えのしない湯呑みに中身が注がれる。女は古畳の上に湯飲みを置くと、つい、と鬼黒の方に押し出す。鬼黒は再度框に腰を下ろして湯飲みを受け取り冷え切った白湯を口に含んだ。
「あの子はね。あたしの妹だったんだよ」
 女は遠い眼をしてぽつりぽつりと語り出した。
「こう見えてもね。あたしは大見世の呼び出し昼三だったのさ。松高っていうね。もう昔の話だけどね」
 女は左手を開いて振って見せた。その手には小指の先がなかった。
「止せばいいのにね。見世の若い者と恋仲になっちまったのさ。飛んだ御法度破りだよ。遣手にも忘八にも知れちまってね。酷い責めを受けたよ。あたしも花魁の意地があってね。添うて添えぬ恋路でも誠の証は立てる、って自分で噛み切ってやったのさ」
 女の声は乾いていた。
「それで河岸見世に鞍替えさせられって訳か」
「ああそうさ。落ちぶれたもんさね」
 女は鼻で自嘲めいた笑いを立てた。
「結局男はどこに行ったものやら。とんと御無沙汰になっちまったけどさ」
 男も相当な仕置きを受けただろうと鬼黒は思った。妓楼の大看板に手を付けたのだ。ただでは済むまい。郭の外に追い払われたか。いや。それならばまだいい。簀巻きにされて大川に浮かんでもおかしくはない。
「おっと。話が横に逸れちまったね」
 女はまた語り出した。鬼黒は黙ってまた湯飲みを傾けた。
「妹たちの中でもいっとう頭の回転の速い子でね。中々廓の言葉には慣れなかったけど覚えは良かったよ。舞を舞わせても琴を弾かせても字を書かせても飛び切りでね。ああ。育ちの良い娘なんだなと思ったさ」
 女は薄い布団の枕元に置かれた煙草盆を手繰り寄せて煙管を手にした。遠くを見るような眼差しはそのままだった。
「非道い目に遭ったんだって聞かされたよ。そりゃぁ郭にいる女はみなそれぞれに訳ありさね。貧しい村から売られて来ただけじゃない。元は武家のしっかりした家で育った娘だっているさ。何もあの子だけが特別って訳じゃない」
 鬼黒の鼻から長い息が吐き出された。浮き世の無慈悲さは鬼黒も身に沁みて分かっていた。出来ることならばあの娘にはそんなことは知らないでいて欲しかった。
「侍に父親を斬り殺され、棲まいに火を放たれ、必死の思いで母子揃って逃げ延びた。母親はあの子を残して行き倒れた。真冬の寒い寒い雪のちらつく日だった。そう言ってたよ。行き場のなくなったあの子を拾った百姓がね。村に回って来た判人に売って金に換えたんだとさ。百姓も判人もぼろい儲けさ」
 女は手にした煙管を見遣って火皿に煙草を詰め、吸い口を咥えて身を屈めた。煙草盆の火入れに差し込んだ雁首から紫の煙が立ち上る。火鉢の炭は切らしても煙草の火種は切らしてていないようだった。
 身を起こして女は一服二服とゆっくり煙を吐いた。鬼黒は話を急かすことなく女が口を開くのを待った。
「故郷に思い人がいるって泣いてたよ。客の前では気丈に振る舞ってたけどね。自分を守り通すと誓ってくれた人がいるって。その証に鳥を彫った簪をくれたんだって。その人の根付と対になってるんだって」
 鬼黒の胃の腑が鉛を呑み込んだように重くなった。胸が軋んで重い息が漏れた。
「あんたの持ってるその細工みたいにね。黒く煤けて薄汚れてた。それでも肌身離さずいつでも持ってたよ」
 鬼黒の目尻から熱いものが一筋流れた。止める間もなかった。
「恨んでるだろうな。その男のことを。守ると言って守りもしなかった奴のことを」
「いや。恨んじゃいないさあの子は。いつかもう一度会うんだ。会ってその胸に飛び込みたい。そういつも行ってたよ」
 女の手が煙草盆の灰落としに伸び、縁に打ち付けられ雁首が、こん、と軽く音を立てた。女は煙管を吹いてまた火皿に煙草を詰め火を点けるとそっと鬼黒に差し出した。鬼黒が被りを振って断ると、そのまま口を付けて深く吸い煙を吐いた。白い煙には溜息が混じっていた。
「また会えると信じてたんだよ。あの子は。瘡毒を患って酷く高い熱を出して鳥屋に臥せったときもさ。それを心の支えに堪え忍んだんだよ。譫言で名前を呼んでたよ。新九郎さま、ってね」
 力なく涙を流していた鬼黒の眼が鋭くなり眉間の皺が深まった。まさか。この女、熱を出して寝付いた娘を見て何か気が付いたのではないか。
「おいあんた」
 女をまじまじと見据える鬼黒の口から迫るような低い声が出た。
「看たのか。その娘を」
「ああ。看たさ。いっとう可愛い妹だったからね」
「あんた。ひょっとして……」
 そこまで口にして鬼黒は言い淀んだ。この女は見たのだろうか。それとも見てはいないのだろうか。肌が高熱を帯びたときに浮かび上がる紋様を。一体どちらだ。それが知れなければおいそれとは口に出すべきではない。藪蛇になりかねない。
「白粉彫りなんだろうねぇ。あれは」
 難しい顔をして黙り込んだ鬼黒を暫く眺めて女が呟いた。
「普段は隠れていて見えやしないけど、肌が高い熱を持つと浮かび上がるんだもの。そうに違いないさ」
 鬼黒は思わず立ち上がった。この女どこまで知っているんだ。今にも飛び掛からんばかりの勢いを見せた鬼黒に女が一喝する。
「落ち着きなっ」
 それまでの気怠そうな声から打って変わった張りのある声が鬼黒を押し留めた。女はきつい眼をして鬼黒を睨み付けたが、鬼黒がその気迫に押されて動きを止めたと見るや、また表情と声を和らげた。
「落ち着きなよ。兄さん。郭の女を見くびっちゃぁいけないよ。秘め事は秘め事さ。人に話さないから秘め事なんだ。そもそもあの子がどんな事情であの彫り物を抱えてるのかあたしが知ってたとしてもさ。今日ここで初めて会ったばかりのどこの御方とも分かりゃぁしないお人に軽々しく話すとお思いかい?」
 女は鬼黒の眼を見て言った。
「信用してくれとは言わないよ。でもね。あたしにも矜持ってもんがあるんだよ。一度は花魁を張った矜持ってもんがね」
 その瞳に嘘は一欠片も見られなかった。
「済まねぇ。姐さん」
 鬼黒は視線を落とした。俯いた鬼黒の総髪から白い後れ毛の束がはらりと落ちた。それを見て女は呟いた。
「あんたも相当辛い目を見てきたんだねぇ」
 女は言って立ち上がると鬼黒の黒髪に一条差す白い髪の束を後ろに撫で付けた。女の手に情を感じ鬼黒はされるがままでいた。
「いや。俺は運が良かった方だ。死にかけていたところを拾ってくれたお人が大したお人だっただけさ」
「そうかい」
 女は腰を下ろしてまた横座りになった。
「もう一度あんたの持っている根付を拝ませておくれでないかい」
 鬼黒は根付を取り出し掌に乗せた。
「ちょっといいかい?」
 女は鬼黒の目を覗き込んだ。鬼黒が頷くと女は根付を手にとって彫られた鳥に愛おしそうに指を這わせた。
「ああ。同じだ。あの子のと同じだよ」
 女は柔らかな声で何度もそう言っては根付を撫でた。
「懐かしいもんも拝ませて貰って懐かしい話も出来た。もうこれで思い残すことはないねぇ」
 女は根付を鬼黒に返して言った。根付を鬼黒の掌に乗せ手を離すときに表面に一本だけ残った人差し指が鬼黒には名残惜しそうに見えた。
「止しなよ姐さん。縁起でもねぇこと言うもんじゃねぇ」
 女は儚げな笑みを浮かべた。
「いいさ。もうすぐあたしは大門の外へ出られる身なんだから」
「借財返す目処が立ったのかい?」
「そうじゃぁないさ」
 女は畳に手を突き腰を浮かすと局見世の薄い壁の方へと体の向きを変えた。目線が壁の染みの一つ一つを追うように天井近くを左右に泳いだ。
「金を返して身ぎれいになろうったってね。こんなところじゃ大見世みたいにはいかないよ。あんたも知っての通りだろうけどね」
 女は笑みを浮かべたがその表情にはどこまでも暗い影が差していた。
「大見世の花魁が男の下で一回いい声出して俵一つ半の米が買える稼ぎをする間に、あたしら河岸の女が男の上で腰を振って稼げるのはせいぜい一升枡一杯の米代だよ。そこから差っ引かれてくんだ。何人客を取っても追いつきゃしないよ」
 女は己の境遇を鼻で笑って見せた。金三分と銭百文。女が花魁と呼ばれていた頃なら新造を伴って一両一分は客から引き出せたことだろう。女の借財があとどの程度残っているかは分からない。しかしちょん切りの安い稼ぎでそれを埋めていくのは一体あと何人の男たちに抱かれねばならないのだろう。鬼黒は考えるのを止めた。
「苦界の中でもここはいっとう娑婆に近いのさ」
 女はそう吐いてころころと笑った。
「娑婆に近いたぁ……」
「大見世で稼げる女郎は病を患ってもそれなりに忘八は目を掛ける。稼ぎのない女郎は行灯部屋に転がされて仕舞いだけど、花魁なら金杉村あたりの寮で養生させることもあるさ。河岸じゃぁ使い物にならなきゃそれまでさ。お医者や薬なんぞとはとんと無縁。浄土にまっしぐらさ」
 鬼黒は言葉に詰まった。女は穏やかに微笑んでいた。
「阿弥陀さまのお迎えが来るわけじゃぁないさ。若い者が来て戸板一枚かせいぜいが荷車に乗せられるだけだよ。それでも娑婆に出られるんだ。放り捨てられる先が浄閑寺の無縁仏の穴ん中でも浄土に変わりは……」
「もういい」
 耐えきれず鬼黒は女の言葉を遮った。
「もう止してくれ。頼むからもう……」
 鬼黒は喉から声を絞り出した。
「死んで娑婆に出たって……意味なんかねぇじゃねぇか……」
「兄さん。あんた優しい男だねぇ……」
 女は薄汚れた天井を見つめてぽつりと零した。もうとうの昔に枯れ果ててしまったのか女の目には涙一つなかった。
 女はまた自らを嘲笑って、ふ、と鼻を鳴らしてから、湿っぽくなった空気を変えるように声を明るくした。
「さ。随分と余計なこと話ちまった。行ってやんなよ。行って会ってやんな」
「生きて……いるのか……」
「あたしはあの子が死んだなんて一言も言っちゃぁいないよ。あたしの跡でね。花魁張ってるんだ。見違えちまうかも知れないけどね。会えば分かるさ」
「花魁だと……どこの見世のだ?」
「萬屋だよ。今を時めく花魁の綾松と言やぁあんたも知ってるだろ」
「な」
 鬼黒は絶句した。ついこの前一悶着を平らげてやったあの花魁が生き別れの真砂だというのか。会いたいと焦がれ続けたあの乙女だというのか。
「本当なのか……」
「あたしが嘘を言う道理はないよ。萬屋でのあたしの名前だった松高から松の一字を取って綾松。いつでもあんたに貰った鳥の彫り物の簪を頭に挿してね。胸張って見世に出てるよ」
「待て。花魁が俺の簪を? そんな訳ない。あんたあの簪は煤け汚れてたって言ったじゃないか。そんなもの花魁が頭に挿して見世に出る訳が……」
 萬屋の綾松の姿は何度も見ている。昼三の花魁だけに身につけているものは華やかなものばかりだった。花魁の首から上は家一軒、と言い慣わされているが、それに相応しい随分と金を掛けた櫛や簪で髪を飾っていた。古びた柘植の簪など見た覚えはない。
「あるんだよ。よく見るこった。大切な簪と寸分違わぬものを作らせたんだよ。鼈甲でもいっとう高価な白甲でね。いついかなるときでも身につけていられるようにってね。職人に寸分違わないものをこさえさせたのさ」
 そうだったのか。鬼黒の手が額に伸び掌が両眉をぐっと掴む。己の目は飛んだ節穴だったという訳か。首を後ろまで白く塗り紅を差して鉄漿で歯を黒く染めた売れっ子の女郎に真砂の昔の面影を見出すのは難しかろう。しかし見かけに惑わされて夢にまで見て追い求めた鳥の細工を見誤るとは。鬼黒は胸の内で己を罵った。
「姐さん。本当に済まねぇ。恩に着るぜ」
 鬼黒は深々と頭を下げた。
「いいってことさ。あんたに会えて良かったよ」
 女は朗らかに言った。
「さぁ。行っておやり」
 女は鬼黒の右手を取って両手で包んだ。鬼黒の手は酷く冷たく骨張った感触を覚えた。せめてもと思い鬼黒は女の手の甲に左手を重ねて優しく、そして力強く握った。
「気を付けな。兄さん。妙な噂が耳に入ったんだよ。ここんとこ綾松の周りを嗅ぎ回ってる得体の知れない連中がいるみたいなんだ。どこのどいつなんだか素性は分からない。ことによるとあの子の腰の彫り物に関わってるかもって、あたしは何だか嫌な予感がするんだよ」
 それが本当ならば。鬼黒は思った。あの男だ。きっとあの男が郭に現れたのだ。乙女の、今は綾松と名乗る社家の娘真砂と己の父の敵に漸く巡り会える。
「守っておあげよ。な。鬼の新九郎さんよ」
「ありがとうよ」
 鬼黒は力強く頷き長半纏の裾を翻すと、女の言葉に背中を推されて路地に足を踏み出した。その足取りは地をしっかりと踏み締めた確かなものだった。

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