(七)
女の悲鳴が響き渡る。
「お止しなんし。お止しなんし」
必死の叫びは聞き入れられることなく、数人の男を従えて座敷に乱入した仮面の男は女郎を追い回しやがて捕らえる。
「離してくんなんし。離してくんなんし」
一際大きな声で女は叫ぶ。その様子を目の当たりにした妓楼の者たちも大声で叫ぶ。
誰もが笑っていた。
角頭巾に裁着袴の男が太鼓で節を刻む。笛を吹き鳴らす。囃し立てられ女郎に抱きついていた赤熊と白い狐面を被った男は腕の中から女を解き放ち、二、三尺はある大きな幣束を肩に神楽鈴を打ち振るって滑稽に飛び跳ね踊る。
「これでわっちは子を孕んでしまいんすかえ」
狐面に抱きつかれた女郎は情けない顔をして見せそう言うと、からからと愉快そうに笑った。
「めでたいことでありんすなぁ」
振袖の長い袖を持ち上げ口元を隠して別の女郎がからかうように言いこれもまた愉快そうに笑う。
狐面は跳ねながら座敷の中を回り、神楽鈴の音を隅々まで振りまいていたが、急に踊りを止めて禿たちに飛びかかろうとする。
「あれえあれえ」
禿たちが声を上げて逃げ惑う。その姿にお捻りが雨霰と降り注ぐ。
「やめなんし。やめなんし」
「拝みんす。拝みんす」
「孕みとうない孕みとうない」
七、八歳かそこらの歳で子を腹に宿すなどあり得ないが、禿とて郭の女。年端はいかないが日々男たちと繁る姉たちが男の精を受けていることも知っているし、精が働けば何が起こるかについてもしっかりと叩き込まれている。狐舞に抱きつかれれば懐妊するという言い慣わしは禿たちを怖れさせるには充分だった。
ぴぃい、とん、と笛太鼓が鳴りお囃子を止める。男たちは頭を下げ畳に散っている御祝儀を箱に収めると、お辞儀をしながら退散し次の妓楼へと足を運ぶ。
大晦日の郭はこうして妓楼を回る狐舞の門付で賑やかになる。郭が江戸中から人を引き寄せて賑わうと言えば一に弥生一日に植えられて仲の町を一斉に彩る桜の見物。二に七月に仲の町の引手茶屋の軒先に吊される玉菊灯籠見物。三に八朔に行われる花魁行列と妓楼に奉公する者たちが様々な扮装をして狂言を演じる俄見物だが、そこまでの人出ではないにせよ、狐に追われて逃げ回る女郎の滑稽な姿を楽しみにして馴染やお大尽が集ってくる。
妓楼を出て通りに出るとまた囃子方は笛太鼓を鳴らし始める。狐面は幣束を肩の上で揺り動かし神楽鈴を振りかざして。しゃんしゃん、と振って飛び跳ね通りを進む。同じような態をした一座が踊りながら通りの向こうからやって来る。珍しくこの一座の狐は赤熊白狐面ではなく振り乱す白熊の下に黒い狐面を付けている。すれ違いざまに囃子方が楽器を鳴らしながら会釈する。黒い狐面の一座も会釈を返す。二つの狐面は、一方は灯籠の明かりに白く浮かび上がり、もう一方は灯りを吸って黒く沈みながら互いに別れ離れて行った。
一之進は前日から顔番所で眠ることなく格子窓の前に座り込み、番所の中から大門の往来を注視していた。郭に入れる場所はここ一箇所。出るにもここを通らねば出られない。夜四ツには閉じられる大門だが脇の袖門は昼夜問わず開いており、深夜であっても出入りは出来る。葛野源四郎とて必ずここを通らねばならない。一之進は辛抱強く網を張り続けた。
葛野は久保玄斎と名乗り医師に化けているという。一之進は束ね髪剃髪を問わず医師の身形をした者は呼び止めた。多くは妓楼に呼ばれた子を堕ろすことを専門とする中条流の医師で素性はすぐに割れた。見物であったり純粋に女郎を買いに訪れた町医者もいた。中々素性を明かさず言い逃れをして切り抜けようと怪しい素振りを見せるのは、戒を犯して妓楼に上がろうと医師に扮した僧侶だったりした。
今のところ悉く外れている。今日に限って葛野は医者の態は止めて町人の振りをしているのだろうか。侍の身形であったらどうだろう。葛野一人ではあるまい。綾松を拐かすには手勢もいるだろう。その者たちはどんな態をする。お上りの旅人の振りか。一之進はありとあらゆることを考えたが、門を通る者全てを呼び止めて誰何する訳にもいかぬ。気ばかり焦って一之進は消耗する一方だった。
入りはともかく出の方はどうだろう。郭から出る女には四郎兵衛会所の目が光る。足抜けを図る女郎は大抵は男に扮するが、四郎兵衛会所の者の目を誤魔化すことは容易ではなく上手く隙を突くしかない。今のところ会所の方でそういった者を捕まえるような動きはない。郭には堅気の女も多く棲まうが、門を出るには切手を必要とし顔番所に届け出ることになる。今日僅かに番所を訪れた者は全て切手を携えて来ており何の問題もなかった。
いや。綾松は無理矢理拐かされるのだ。自分から身形を変えて葛野に付き従って己の足で門の外に歩いて出る訳がない。荷のように運ばれるに違いない。荷車。大八車。荷を隠すように台を覆った車が通るのはどんな時だ。そうだ。郭で死んだ女郎を浄閑寺に運び出すときだ。眠らせて遺体の振りをさせるのか。それとも遺体の中に混ぜて運ぶのか。だがどちらにせよ門を通るときに会所の者が検分する。その間に己も会所に赴き確かめる暇は充分にある……。
舟を漕いだ一之進の体が、がくり、と揺れる。一之進ははっとして慌てて体を起こす。不覚にも居眠りをするところだった。一之進は頭を振って立ち上がった。まだ日は暮れたばかり。奴等が事を起こすとすれば夜陰に乗じてに違いない。先はまだ長い。気をしっかりと持たねばならぬ。
一之進は茶でも飲もうと火鉢の上で湯気を噴いている鉄瓶に近づいたが、思い留まりまた格子窓に戻って往来に目を向けた。また湯飲みの中に茶柱など見たくはなかった。
久し振りの花魁の座敷に萬屋の二階は湧いていた。臥せっていた綾松が快癒し、快気祝いとして馴染みの札差の主人が宴会を催したのだった。
見番芸者が派手に三味線を弾きそれに合わせて幇間が、座敷に据えられた赤い塗り膳の間を縫って尻捲りをして踊る。綾松は敷かれた緋毛氈の上で札差の主と並んで微笑んでそれを見ている。
「綾松。お前さまの明るい顔を見られてわたしは嬉しいよ」
札差の主は綾松の妹である振袖新造の勺を受けながら目尻を下げる。
「おや。大黒さまが何か言いやんしたなぁ」
綾松はわざとそっぽを向いてつれなく言ってのける。札差はそういったつれなさが花魁が喜んでいる印と知っているので、自分も嬉しさを隠すことなく快活に笑う。
「はは。大黒か。よし。では大黒様が餅でも蒔くとするかな」
札差は立ち上がって懐から紙入れを取り出す。
「そうれ。そうれ。大黒様のお通りだよ」
紙入れを開いた札差は中の懐紙を座敷に振りまき始める。嬌声が上がる。新造が芸者が幇間が色めき立つ。
「おはなだおはなだ」
綾松の脇で畏まっていた禿たちが宙をひらひらと舞い落ちる懐紙に手を差し伸べはしゃいだ声を上げる。
「それ。紙入れは一つではありませんよ。まだまだ。それ。それ」
札差は遠慮会釈なく懐紙を撒き散らす。騒ぎを聞きつけ手の空いている女郎たちや若い者たちが座敷に駆けつける。その人垣を押し分けて遣手が前に進み出て恵比寿顔で三つ指を突く。
「これはこれは旦那様大旦那様お大尽様。大層なお花をありがとう存じます」
「うむ。綾松の快気祝いだ。皆さん遠慮は要りませんよ。さぁさぁ。どんどん取りなさい。取りなさい」
たちまち座敷は懐紙を求めての上を下への大騒ぎとなる。
妓楼に飛び込みで上がる直付の客とは違い、札差は引手茶屋を通して萬屋に上がっている。引手茶屋では客の荷物の一切を財布に至るまで預かってしまうので、座敷には一銭の金も携えては来られない。その代わりに懐紙が意味をなす。懐紙一枚に付き金一分。宴席の費用を精算する際に客から御祝儀分として金子と引き替えられ妓楼に入る。紙花を散らされた妓楼の者たちはそれはそれは大喜びなのだった。
「ほんにそさまはいこう剛毅でありんすなぁ」
「何。商っても商っても損をするどころか金倉は一杯になるばかりですからね。溢れて寝所まで埋め尽くされる前に、こうして綺麗に使ってしまった方が良いのですよ」
札差の主は綾松に笑いかけた。
「もう加減は良いのですか?」
「あい。この通りでありんす」
横に戻って腰を下ろした札差の耳打ちに綾松は静かに応える。
「病み上がりですからね。無理はいけませんよ。安心なさい。わたしが暫く客の相手をしなくて済むくらいのことをしてあげます」
札差は綾松の手に自分の手を重ねて優しく言った。
「主さん。無駄をしなんすな」
この札差は上客中の上客。情男ではないが気の許せる数少ない間柄。綾松は胸の内では手を合わせ頭を下げつつも、放蕩が過ぎて身上を潰したりしはしまいかと少々窘める。
「良いのです。無駄などではありませんよ。他にわたしに出来ることがあれば何でも仰い」
下心など微塵もない言葉に綾松は畳に目を落とし暫し考え込む。再び始まった芸者のお囃子と重ね合わされる笑い声の喧噪の中、やがて思い切ったように顔を上げぽつりと呟く。
「ひとつだけありんす」
「何だね。言ってご覧なさい」
「今宵九郎助稲荷にお礼参りをしとうござんす」
「そうか。病気快癒のお礼参りか。そうだな。ずっと臥せっていたのだからな。外の空気を吸いに出るのも悪くはないでしょう」
札差は席を立つと遣手に手招きをして廊下に出た。自分に御祝儀でも弾んでもえるのかといった風情でいそいそと遣手が後に付く。札差は座敷の中を見ながら遣手に二言三言言う。にこにこしていた遣手の顔が豆鉄砲を喰らった鳩のようになる。慌てた様子で遣手はばたばたと上草履の音を派手に立てて廊下の向こうに消える。やがて萬屋の主惣右衛門と連れて戻ってきた遣手は二人して札差と相談事を始める。札差がまた二言三言言うと惣右衛門は折れたという顔で頭を下げ敷居を跨いで綾松に近づいてきた。
綾松の横で膝を突いた惣右衛門は当たりに聞かれないようにか低い声で話しかける。
「随分とまた我が儘をお言いだね。花魁だからといって何でも許される訳ではない」
惣右衛門は開口一番綾松を叱る。綾松は肩を落とした。惣右衛門は溜息を一つついて綾松の目を見ながら言葉を重ねる。
「それでもね。あちらの御方のたっての頼みとあれば無碍には出来ない。行っておいで」
綾松の顔が明るくなった。
「あの御方に感謝して次にお上がりのときは精一杯勤めるんだよ」
「あい」
綾松は気持ちを込めて返事をした。
「引け四ツでお座敷が終わるまでお勤めなさい。遅くとも大引けまでには戻るんだよ」
「あい」
綾松の返事を待っていたかのように札差が声を上げる。
「さぁさ。まだ遊び足りませんよ。打ちますよ。賑やかに惣花といきましょう」
座敷からまた歓声が上がる。妓楼の者、女郎屋や若い者、飯炊きや風呂焚きなどの下働きの者全てに御祝儀を弾むとの札差の宣言に宴はまた一層に盛り上がる。
殷賑極まった萬屋二階の席で、綾松は恩を受けた札差にそっと目配せをして、誰にも見られぬよう前に結んだ帯の陰で両手を合わせた。
角町筋の木戸の隅で鬼黒は木桶を逆さにひっくり返し腰を掛けて天を仰いでいた。仲の町に立ち並ぶ大見世や表通りから伸びる各通りに並ぶ中見せから清掻の音が響いてくる。あちこちで狐舞が跳ね笛と太鼓が鳴っている。その賑やかな音など鬼黒の耳には入らない。
暗い空だな。鬼黒は思った。晦日の今夜は月が出ていない。照らすもののない夜空には高く星が煌めいていたが、鬼黒にはその輝きも何だか嘘くさいもののように思えた。鬼黒の口から白い息が長く尾を引いて出る。溜息などついても心が晴れないことは分かっていたが、鬼黒は抑えることが出来なかった。
かつて高松という名で花魁を張っていた女が消えた。鬼黒に故郷で共に過ごした社家の娘が生きており、妓楼萬屋で花魁綾松として息災にしていること。鬼黒の持つ根付と対になる簪を大切にしていること。それらを教えてくれた羅生門河岸の年増女郎はいなくなってしまった。
世話になっている町名主の使いで二日ばかり郭を離れて千住村に行っていた。この前のせめてもの礼をと思い帰りに饅頭を買って局見世を訪れた。そこは蛻の殻となってしまっていた。
浄土の具合はどうだろう。今夜も冷えるがそこは温かいだろうか。娑婆の浄土は浄閑寺境内の露天に掘られたただの穴。中は冷たく心底冷えるだろうが、魂は本物の浄土に飛んで行ったことだろう。いや。飛んで行っていてくれねばやるせない。鬼黒はまた大きく溜息をついた。
鬼黒に語ってくれた女の声が頭の中に蘇る。あのとき女は、もうすぐ娑婆に出られる身などと言っていた。自分に残された時は少ないと分かっていたのか。
空っぽになった局見世の前で呆然と佇む鬼黒に、部屋の主は朝早く戸板に乗せられ筵を被って運ばれていったのだと別の局見世の女が教えてくれた。何かを患って時折苦しんでいたのだと告げてくれた。
何かしてやれることはなかっただろうか。鬼黒は馬鹿げたことを考えるものだと自分を嘲笑った。出来ることなどありはしない。女の境遇を変える力など自分にはありはしない。大枚積んで身請けして郭の外に連れ出してやることも出来ない。客として女を抱いて銭を与えることすらも出来はしない。出来たことといえばただ一つ。土産にでもと思って買い求めた饅頭を誰もいなくなった部屋の框に置いて静かに手を合わせてやることくらいだった。
それでも、と鬼黒は思った。今日は狐舞で賑やかだ。屈託のない笑い声が郭の中に溢れている。それがいくらか旅立っていった女の慰めになるのではないか。死んでも荷のように扱われる碌でもない人生だったかも知れないが、笛太鼓のお囃子と女たちの笑い声に送られるのならば、そうそう悪いことでもあるまい。しかも狐の躍り付きときたもんだ。鬼黒の口の端に微かな笑みが浮かんだ。
空を見上げるのを止めて鬼黒はぼんやりと表通りを眺めた。男たちが行き来する。女たちが籬の中から呼び止める。袖にする者。誘われて上がる者。いつもと変わらぬ風景がここにある。そのことが鬼黒の冷えた心をほんの少しだけ勇気づけた。
行かねばな。綾松の元へ。今は表だって話に花を咲かせることは出来まい。あちらは花魁。こちらは会所の若い者。同じ郭の中に生きる人間だが立っている場所が違う。忍んで逢ったり文を交わすことも出来なくはないが、そんなことをすれば迷惑が掛かる。萬屋という大見世から河岸の局見世に落とされ辛酸をなめることにもなりかねない。
ならばそっと見守るのが良い。綾松は自分の存在は知っているだろうが、幼いとき共に山で迷い、比翼の鳥の細工を交わした若武者だとは気付いてはいまい。まだ知らぬ方が良い。知ったところで互いにどうしようもない。
つらつらとそんなことを思いながら通りを眺めていると、不意に清掻の音が止んだ。静かになった郭の通りに刻を告げる拍子木の音が響き渡る。一回。そして続けてもう一回。四ツに打たれなかった分を九ツに纏めて打つ音は夜見世の終わりを告げている。見世の表戸が閉められていく。
引け四ツになればもう妓楼はその日の客を取らない。通りの人波が引いていく。泊まりではない客が、籬越しに冷やかしていた素見の衆が、三々五々に大門の方へと歩き去って行く。
その流れに逆らって、江戸町の方から女郎が一人、水道尻の方へ駒下駄を優雅に進めていく。 あれはどこぞの姐さんか。茶屋の座敷が跳ねて妓楼へ戻る途中か。この時分もう呼び出しに応じることはない。きっとそうなのだろう。鬼黒は思った。
しかしどうだろう。女郎の姿が近づくにつれ鬼黒の胸に疑念が湧く。あの豪奢な態は見るからに呼出し昼三。茶屋へ行った帰りならばお付きが付いていないのはどういう訳だ。格の高い昼三が一人で行って帰るなど見たことがない。どれ。一声掛けてみるか。
鬼黒は立ち上がりしずしずと進む女郎に歩み寄ろうとしたが、体を強ばらせて歩みを止めた。鬼黒が息を呑む。
あの顔は。知っている。あの身の熟しは。見知っている。ではあの前挿し後ろ挿しは。よく知っているものと材は違う。だがあの中のどれかがよく知っているものを模した一本だ。
紛うことなき萬屋切っての花魁綾松との邂逅に鬼黒の心の臓が止まってしまうのではないかと思われるくらいに大きく拍った。
綾松は棒立ちになる鬼黒を省みることなく行き過ぎる。鬼黒の鼻先を匂油の香りがくすぐる。芳香は真冬の夜に溶けて儚く消えていく。漸く振り返った鬼黒の目が綾松を追う。金襴緞子の後ろ姿が次第に遠ざかっていく。
鬼黒は耳元で囁かれたような気がしてはっとした。あの局見世の女が優しく、行っておやり、と鬼黒を促した気がした。そんな声など聞こえるはずがない。分かっている。分かってはいるのだが、鬼黒にはこの巡り合わせは女の導きのように思えてならなかった。
粋な置き土産だな姐さん。鬼黒はまた天を仰いだ。鬼黒の呼びかけに応えるように流れ星が一つ流れて消えた。心を決めて鬼黒は足を踏み出した。駆け出すことはない。綾松は消えたりしない。そう自分に言い聞かせて鬼黒は静かに綾松の背中を追った。
二人が去った場所に狐舞の一座が二組現れた。一方はありふれた白い狐面、もう一方は珍しくも黒い狐面に率いられていた。一座は鼻を突き合わせては何事か囁き合った。互いに頷き合った後に白い狐面の一座はばらばらに郭の中に散った。黒い狐面の一座は遅れて二手に分かれた。一方は二人の後を間を開けてゆっりと歩き、もう一方は急いだ様子で角町の通りの奥へと走り去っていった。
鬼黒も綾松も気が付くことはなかった。この男たちが虎視眈々と目を光らせて隙をうかがっていることに。郭の誰もが知らなかった。この男たちがこれから引き起こす出来事に。
柏手を打って綾松は手を合わせ頭を下げた。目を閉じてじっと祈った。御守り下さいましてありがとうございます。今日もこうして生きております。生かして頂いております。ありがとうございます。ありがとうございます。
祈りを終えて顔を上げた綾松は九郎助稲荷の社を見つめた。変わりはない。あの頃と全く変わってはいない。自分は歳を重ねて二十歳を超えた。新造から上り詰め二十四になった今では花魁と呼ばれる身になった。それだけの時が過ぎたというのに、この社は時が止まったかのように変わらぬ姿で佇んでいる。綾松の目に寂しげな光が浮かんだ。
郭に来たばかりの頃は泣き虫だった。自分の境遇を嘆いて泣いてばかりいた。そんな自分を姉の花魁は暇を見つけてはこの場所に連れて来てくれた。
いいかい。願を掛けるもんじゃぁないよ。お稲荷様はね。願の代わりに何かを一つ持っていくんだ。叶う叶わないは別さ。願に耳を傾ける見返りを求めるのさ。だから祈るんだ。生かして下さりありがとうございます。精一杯のお礼を聞いてもらうんだ。そうすりゃ今日を生きられる。明日もまた生きられる。
姉はそう教えてくれた。お稲荷様が本当にそういうものなのかは知らない。けれども花魁はそうして泣きの涙で暮らす自分に伝えようとしたのだ。生きてこそ。生き続けてこそ浮かぶ瀬もある。例え浮河竹の身の上であってもいつかは大手を振って大門の外へと出ることが出来る。綾松は懐かしい面影を胸に浮かべた。
花魁は去ってしまった。自分はその名から一文字貰って後を継いだ。可愛がってくれた姉を失うことは悲しかった。それでも泣くことはもう止めた。意地を貫いた姉のように自分も凜と生きることを心に決めた。
風の便りで姉が浄土へと旅立ったことを聞いた。弔うことも見送ることも叶わなかった。だから自分はここに来た。姉との思い出の場所で一人静かに祈りを捧げたかった。
「高松姉さん」
綾松は姉であった花魁の名を呼んだ。九郎助稲荷は応えなかった。高松も応えなかった。誰一人として応える者はいなかった。
冬の寒さが身に沁みた。駒下駄の上の素足が悴んだ。幼い頃は母が足袋を履かせてくれた。布一枚に包まれているだけなのに寒さは和らいだ。郭の女となった今では足袋を履くことは許されない。真冬の凍える日でも裸足で過ごさねばならない。指先が凍り付いてしまいそうだった。それでも綾松は帰ろうとしなかった。
郭の女たちが願いを込めて収めた数々の絵馬をぼんやりと眺めているときだった。
「姐さん。お一人かい」
綾松の背中に低い声が掛かった。駒下駄を小刻みに動かして振り向けば、黒い着物の上に黒い長半纏を纏った総髪の男が立っていた。ああ。この男は会所の若い者。この前萬屋の門口で難癖を付けた侍たちを追い払った。確か。鬼黒といったかしら。社に上げられた灯明の薄ぼんやりした光に浮かび上がった姿を見て綾松は思い出した。
「済まねぇ。ちょいと脇へ退いて貰えるかい。俺もお参りしたいんだ」
鬼黒はそう言ってゆっくりと社の前に進んだ。綾松は敷石に駒下駄の歯を擦って微かな音を立てながら身を引いて道を空けた。
鬼黒は柏手を打って手を合わせた。随分と長いこと頭を下げて祈っていた。力に溢れ乱暴者をいとも簡単にあしらってしまうこんな人でも掛ける願があるのだろうか。綾松は少し興味を引かれた。
「何を拝みやんすかえ」
黒い長半纏の背にそう問うと、会所の男は頭を上げて背中越しに応える。
「願を掛けた訳じゃねぇ。お礼参りさ。ちょいと嬉しいことがあってな」
ああ、そうなのか。奇遇なことだこと。お礼参りと言って見世を出た同じ夜に、お礼参りのお人と出くわすなんて。
「さいざんすか」
綾松はほんの少し笑みを浮かべて言った。郭の中は華やかな裏側に辛く悲しいことを沢山湛えている。所によっては深く深く澱んでしまっている。それでもささやかな幸せや喜びを感じさせることだってある。この鬼黒というお人もそんなものに巡り会ったのだ。綾松の胸に温かいものが広がった。
祈りを終えて鬼黒が綾松の方に向く。
「もう遅い時分だが帰らなくていいのかい?」
鬼黒が問い掛ける。
「大引けまでには戻りんす」
綾松は応える。
二人の間に沈黙が訪れる。鬼黒が何か言いたそうな顔をする。綾松は小首を傾げてそれを見る。鬼黒が綾松を見つめる。じっと目を見つめる。暫くそのまま身じろぎもしない鬼黒だったが、視線を下げて綾松の前を行き過ぎる。鳥居を潜って鬼黒が足を止める。振り返ってまた綾松を見る。
どうしたのだろう。そう思う綾松に向かって鬼黒が口を開く。
「姐さん。一つ頼みがあるんだが」
「何でありんしょう」
「お前さんの簪、見せちゃぁ貰えないかい」
「簪でありんすか」
急に何を言い出すのだろう。綾松は訝しんだ。この前助けた礼を求めているのだろうか。人気のない所でたかろうとでもいうのだろうか。
「いや。盗ろうっていうんじゃねぇ。その……」
色の変わった綾松の顔を見て鬼黒が言い淀む。では簪を見てどうしようというのだろう。
「高松が……高松の姐さんが。教えてくれたんだよ。お前さんがいっとう大切にしてる簪があるって……」
鬼黒の口から出た懐かしい名前と意外な言葉に綾松は息を呑む。確かに肌身離さずいつも挿している簪はある。その簪に一体何の用だろう。この会所のお人は何を知っているのだろう。姉の口から何を聞かされたのだろう。綾松の眉間に皺が刻まれる。
「見せて貰えねぇってんなら仕方がねぇ。無理にとは言わねぇ」
鬼黒は心底悲しそうな顔を見せる。どんな事情があるのだろう。綾松は興味を引かれる。
「なぁ。花魁。こいつを……」
そう言って懐に手を入れた鬼黒の背後に、暗がりから飛び出してきた何人かの男が駆け寄る。鬼黒が振り返る間もなく何かが、ぶん、と唸りを上げて鬼黒の頭を薙ぐ。ご、と鈍い音がして鬼黒の頭が左に傾きその場に崩れる。何が起こったか確かめる間もなく男たちが綾松の両腕をがっしりと掴む、
「な、何をしゃんす」
強引に腕を引かれて綾松の体が前にのめる。転びそうになる綾松の足から駒下駄が脱げ、綾松は裸足で蹈鞴を踏む。
「花魁。一緒に来てもらうぜ」
腕を掴んだ男が言う。
「止めなんし。手を離しなんし」
「五月蠅ぇ。大声出すんじゃねぇ」
両脇から腕を掴んでいる者たちとは別の男が近づいてきて綾松の横っ面を張る。口の中に赤錆びた鉄のような味が広がる。
「堪忍しておくんなんし。拝みんす。拝みんす」
綾松の鳩尾に拳が入る。短く唸って綾松は俯き声一つ出せなくなってしまった。
「温和しくしろってんだよ」
男が凄む。
「手前ぇら……何もんだ……」
綾松の足元から頭を振って体を起こしながら鬼黒が呻く。
「手前ぇはおねんねしてろ。三下」
鬼黒の腹に鋭い蹴りが入る。ぐ、と唸って鬼黒が地に伏す。恐怖のあまり綾松は浅い呼吸を繰り返すばかりとなった。
「さぁ花魁。我らと一緒に塀の外へ参りましょう」
黒い狐面を付けた男が静かに歩み寄ってきて綾松に告げる。
「これ以上手荒な真似はしたくないのです。貴女の体に傷を付ける訳にはいきませんからね」
聞き覚えのある声に綾松は血の気の引いた顔を僅かに上げて狐面を見る。この声は医者の久保玄斎。どうして玄斎先生が。目を見開いて上目遣いに黒い狐面を見つめる綾松の顎がくいと持ち上げられる。
「よくここまで美しく育ったこと。貴女の父もあの世で嘸かし鼻が高いでしょうよ」
狐面の奥から下卑た笑いが漏れ聞こえる。この男父の死を知っている。
「連れて行け」
男たちに命じて狐面は踵を返す。綾松の両腕を掴む男たちがその後に付く。綾松は抗うが両脇をがっしりと押さえられて引きずられるようにして前へ進む。不意に右腕が軽くなる。戒めを解かれて右の半身が大きく斜め前方にのめる。短い呻きが漏れて綾松の足元に男の体が、どう、と倒れ込む。
背後に首を回して見ると、先ほどまで地面に臥していた鬼黒が立っていた。灯明の薄明かりに鬼のような形相が浮かび上がる。
鬼黒は綾松の左を抱える男の首筋に手刀を入れる。怯んだ男の腕の力が緩んだと見るや、綾松から男の腕を引き剥がし顔面に拳を叩き込む。鼻面を押さえて屈み込んだところを鋭い膝蹴りが襲う。男はそのまま体を曲げて膝を折り額をしこたま地面に打ち付ける。
鬼黒は綾松を引き寄せて賊に向かって言い放つ。
「さっきは不意を突かれて不覚を取ったがな。伊達に何度も修羅場を潜ってきた訳じゃねぇよ。花魁は渡さねぇ。四郎兵衛会所のもんを舐めるんじゃねぇ」
次いで鬼黒は綾松の顔を覗き込んで優しい声を出す。
「安心しろ。真砂。俺が必ずお前を守る」
「え……」
短い声が綾松の口を突き心臓が大きく拍動する。綾松は自分の真の名を口にした会所の男の顔をまじまじと見つめる。この人は。乱暴な侍から自分を助けてくれたこのお人は。鬼黒はその目を見つめて確と頷き狐面の一党に鋭い目を向ける。
徐に鬼黒と綾松の方へ一歩二歩と足を進めた狐面が立ち止まって面の後ろから籠もった声を発する。
「若造。何故この女の名を知っている」
鬼黒が言い返す。
「てことは手前ぇも花魁の本当の名を知ってるって訳だ」
鬼黒の胸に綾松が身を寄せ衿をぎゅっと握る。鬼黒はその手にそっと手を重ねると衿から外して綾松を背に庇う。
「下がってな」
鬼黒と黒い狐面が対峙する。鬼黒に倒された男たちが息を吹き返して狐面に並ぶ。睨み合う中、狐面の男が口を開く。
「何者だ。貴様」
「四郎兵衛会所の鬼黒よ」
「それだけではない」
物陰から声がした。皆が一斉に声の方を見る。声の主はゆっくりと姿を現し告げる。
「この者は十年前にそなたが斬った男の忘れ形見」
「何だと」
「何を……」
黒い狐面と鬼黒がほぼ同時に声を上げる。
「花魁綾松は渡さん。諦めよ久保玄斎。いや。元岩渕藩藩士葛野源四郎」
現れた二本差しの侍は油断なく目を配りながら狐舞の一座に言い放つ。鬼黒は息を呑む。この狐の男が。父の敵。今目の前に立つこの男が。全てを奪った憎き奴。鬼黒の拳が固く握り締められる。
「不敵な奴よ。名を名乗れ」
「下郎に名乗る名などない。儂は世の太平と平穏を願う者よ」
二本差しの侍はさらりと言ってのける。
「ふん。公儀の犬か」
狐面が吐き捨てる。その背後に白い狐面の一座が駆け寄ってきて付き従う。
「お頭。首尾は整ったぜ」
新たな手勢が増え玄斎の名を騙っていた葛野源四郎が面を外して面を晒す。
「まぁ良い。どのみち貴様等はここで命を落とす。郭と共にな」
源四郎の顔に邪な笑みが浮かぶ。
遠くから叫び声が流れてくる。男の声が怒鳴る。女の声が泣き叫ぶ。声は重なり次第に大きくなる。
「娘は渡して貰う。さぁ。花魁。こちらへ」
綾松に手を伸ばして言う源四郎の声に誘われるかのようにまた叫び声が上がる。恐ろしいことが起きる。とてもとても恐ろしいことが起きる。綾松は打ち震えた声は次第に大きくなり郭中に響き渡り始めた。
突然の騒ぎに一之進は番所の外に飛び出した。
郭のあちこちで叫び声が上がり大門に人々が押し寄せてくる。向かいの会所を見れば若い者たちが入れ替わり立ち替わりでせわしくしている。門の中から駆け出してきた者が何かを告げ、それを聞いた者が門の中に飛び込む。また別の者が現れて身振り手振りで何かを叫ぶ。
門から溢れ出す人の群れを掻き分けて一之進は会所まで辿り着くと、若い者の肩に手を掛けて強引に振り向かせた。
「何があった」
「火が出た。付け火かも知れねぇ」
平素町方に接する慇懃な言葉遣いをかなぐり捨てて男が言う。
「どの辺りだ」
「京町の一丁目。江戸町の一丁目と揚屋町の境。西河岸に近い方から火が上がってる」
「兄ぃ。角町と江戸町の境も火ぃ吹きやがった」
駆け込んできた若い者が肩を上下させて荒い息で告げる。
「大晦日の晩に何てこった。狐火って訳かい」
「兄ぃ。あながち間違いじゃねぇ。不寝番で怪しい狐舞の連中を見た奴がいる。松明持ってたって話しだぜ」
遣り取りを聞いていた一之進が口を開く。
「よし。急ぎ火消しに報せをやろう」
「無駄だよ旦那」
兄貴分の若い者が険しい顔で一之進に言う。
「町火消しは来たって郭から火が広がらねぇように見張るだけだ。大門超えて火を消しに中まで行かねぇ。何とか俺たちでやるしかねぇんだよ」
男はそう言い捨てて会所の中に入ると若い者を引き連れて袖門から郭の中に駆け込んでいった。
一之進は急いで番所に取って返した。
「何の騒ぎだ」
木嶋伝兵衛が眉間に皺を寄せて一之進に問う。
「出火いたしました。場所は京町一丁目。江戸町一丁目揚屋町境。角町江戸町二丁目境」
「一度にか」
伝兵衛が目を剥く。
「よし。富澤。急ぎ奉行所へ報せよ」
「僭越ながら」
伝兵衛の命に一之進は声を張る。
「使いは別の者にお願い致したく。拙者は郭の中で逃げる者の誘導に当たります」
それだけ言って一之進は番所を飛び出した。
何ということか。狐舞の一座が付け火だと? 葛野か。葛野源四郎の手の者か。夜陰に乗じて人知れず事を起こすかと思ったが、火事で騒ぎを起こしその混乱に乗じるか。非道な真似を。一之進の奥歯が軋んだ。
一之進は人の流れに逆らいながら頭を働かせた。大門から逃げ出す者たちに紛れることは出来る。堅気衆や妓楼の客、奉公人ばかりではない。女郎も一時お解き放ちとなって逃げるは必至。出口は大門しかない。だが果たしてそれで上手くいくものか。一之進は思案を重ねる。
綾松は大門を潜るだろうか。火は恐ろしい。身の危険を感じて郭の外に出たがるだろう。だが無理矢理拐かされる綾松が温和しく賊に従うだろうか。花魁の装束は厚く重い。手を振り切って逃げるにしてもこの人混みでは上手く逃げられはしまい。
一之進は立ち止まった。ではどうなる。
綾松を気絶させて運ぶことも出来る。だが郭の中に駕籠はない。大門より先中に入ることを許されていないからだ。では荷車か。それも違う。大門には人が殺到する。そこを上手く通すことは難しかろう。大門前でつっかえて通り遅れて火の手が迫り焼かれる怖れもある。火を放った奴等がそんなことに考え及ばぬはずはない。
一之進は郭を見回した。逆だ。逆なのだ。人の流れは一箇所に集まる。同じ場所を目指して動く。動いた後は無人になる。無人になれば多少目立つ動きも憚ることなく行える。どこだ。どこに潜む。花魁をどこに連れ込む。京町一丁目。江戸町一丁目揚屋町境。角町江戸町二丁目境。一之進は火の手の上がった場所を順に見遣る。それ以外で一番火の手が遅れて回りそうなところ。いち早く人が退き無人となるところ。
一之進の目が建物を越えて一箇所に向けられる。
羅生門河岸の端。九郎助稲荷。
一之進は駈けた。己の読みが正しいことを願いつつただひたすらに駈け続けた。
白刃が煌めく。
匕首を抜いて突きかかる手を鬼黒は掴んで引き、兇賊の体の勢いを利用して逆の腕の肘を顔面に叩き込む。賊は鼻の下の急所をしこたま打たれて涎を吐いて呻きを揚げる。透かさず鬼黒が匕首を叩き落とす。凶器を遠くに蹴り飛ばした足が素早く戻って賊の足を払う。そこに突き込む別の匕首を侍の振るった鉄扇が打ち払う。手の甲を押さえて下がる男に鬼黒の手が伸び衿を掴んで引き寄せる。身を翻した鬼黒の背に持ち上げられて男の体が大きく回転して地に落ちる。背中を強く打った男の体が跳ね動かなくなる。
肩で息をしながら鬼黒が手首で額を拭う。侍の助力もあり賊は粗方身動き取れないまでに蹴られ、殴られ、投げられ、打たれてだらしなく唸って地に転がっている。
「残るはお前ぇだ」
鬼黒はそう凄んで口の中に溜まった唾を吐き捨てた。
「威勢の良いことだが随分と草臥れているではないか」
「やかましい」
「葛野よ。もう観念せい。貴様の目論見は潰える。同輩を斬りこの娘の父宮司を斬り、殺めた数多の魂魄。それらに今この場で詫びるがいい」
「馬鹿を言うな。漸く金碗の娘を見付け出し、絵図を手に入れることが出来るのだ。この機を逃す訳がないではないか」
「この外道」
鬼黒は両眼に強い力を込めて睨み付け吐き捨てる。そしていざ源四郎に組み付かんと身構えたその刹那。鬼黒の背を何かが突き飛ばした。二本差しの侍が、ぬ、と短く唸る。抜かった。叩きのめした賊の誰かが息を吹き返したか。不意を突かれよろめいた鬼黒の脇を匕首の白刃がすり抜ける。金糸銀糸で刺繍を施された着物の袖がはためく。細く白い腕で支えられた匕首は真っ直ぐに源四郎へと突き進む。
「父の敵っ」
綾松は渾身の力で突き込んだ。半身になって刃を避けた源四郎の手が匕首を支える手首を掴んで捻る。あ、と一声発した綾松は匕首を取り落とす。源四郎はそのまま綾松の腕を捻って引き寄せると後ろから腕を回して綾松の首を締め上げた。
「ああ……」
綾松は嘆きとも苦しみとも取れる声を漏らす。
「殊勝なことだ。だが所詮は女の細腕。そんなもので傷を追わせられるとでも思うたか」
「真砂っ」
鬼黒が綾松の真の名を叫ぶ。
「新九郎さま……」
綾松は鬼黒の真の名を呼ぶ。
源四郎は懐から白鞘を取り出し柄を握って鞘を打ち振り捨てると、抜き身となった匕首の刃を花魁の喉元に当ててじりじりと後ずさる。間合いを保ちつつ鬼黒が草履を滑らせ源四郎に寄る。下がれば追う。追われれば下がる。双方の間合いは一向に縮まらない。
「何故父を斬った」
鬼黒が源四郎に問い掛ける。ここは時を稼いで隙を伺うより他はない。
「大仁田左兵衛。あの痴れ者か」
源四郎の目は鬼黒の一挙手一投足に油断なく配られている。
「全ての罪を着せるためか」
「それだけではない。口封じよ」
源四郎は顎を上げて鬼黒を睨め付ける。
「金碗の女を浚って隠し銀山の絵図を手に入れると話したとき、あの男は必死に止めようと諭した。それが徒となったのだ。古文書で知った秘事は真実今でも生きていると確信出来た。一度引く振りをして誘い出せばのこのこと後を付けて来おった」
「そうして大仁田殿を亡き者にし己の目的を秘匿しようとしたか。それ程までに財が欲しかったか。私したかったか」
「わたくししたかっただとぉ?」
源四郎は顔色を変えて叫んだ。余裕を見せつけるように湛えられていた不敵な笑みは消し飛び、怒りがその顔を醜く歪ませていた。
「私するだと? ほざくな徳川の犬め。あの銀山は、あの埋蔵金は、本来我が先祖が受け継ぐべきものだったのだ。受け継いで誤った世を正すために使われるべきものなのだ」
「貴様の先祖だと? 貴様は豊臣秀頼公の裔だとでもいうのか」
「違うな。秀頼様は崇め奉るべき尊き御方。畏れ多くもその様な戯れ事を口にするなっ」
源四郎は二本差しの侍に口角泡を飛ばす。
「では貴様の先祖とは」
「我が先祖は近江佐和山城城主、豊臣の威信を賭け関ヶ原で戦い破れ、京六条河原で首級を晒された石田治部少輔様の家臣」
「石田三成の家臣だと?」
「気安く御名前を口にするなっ」
源四郎の前で綾松が両眼をぐっと閉じる。強ばる綾松の体に源四郎の戒めがまた強くなる。
「徳川の犬に何が分かる。治部少輔様亡き後何が行われたか。お生まれになった近江坂田で石田家一族郎党の墓石は全て埋められた。領民の手によってだ。徳川が統べるようになり身の安全を守るため埋め尽くされたのだ。郷から石田家全ての痕跡を拭い去るために」
源四郎は震える声で言い続けた。
「さぞや御無念であったろう。戦に敗れるのは時の運。致し方ない。だが恩を受けていた民草の仕打ち。加えて徳川によって流布された誹謗中傷の数々。太閤様にただ一心にお仕えした治部少輔様をあろうことか愚将謀反人などと好き勝手に」
源四郎の目に涙が滲んだ。
「関ヶ原の合戦の前に我が先祖は密かに城内の金倉から金銀を運び出し隠した。それが金碗の財宝の正体よ。私する。私するだと? 愚かな。財を取り戻し逆賊徳川を討ち滅ぼす。そのために使うのだ」
「まるで慶安の変を画策した由井正雪のような物言いよ」
二本差しの侍は鼻白んだ。
「ほざけ。我らが一念思い知らせてくれようぞ」
源四郎が言うや否や万雷千丈に響き渡るかの怒号が走った。
「黙れ下郎っ」
叫んだのは鬼黒だった。
「そんなことで……そんな夢物語の世迷い言のために……父は斬られたと言うかっ」
鬼黒は全身を震わせていた。両の目からは涙が滂沱の如く流れ落ちていた。
「私怨で斬られたというのならばまだいい。試合い打ち倒されたのならばまだ納得もいく。だが。そんな妄想が理由だったなどとは断じて認める訳にはいかんっ」
鬼の形相で鬼黒が仁王立ちする。
「ふん。若造が。どうする。儂を打ち倒すとでも言うか」
源四郎は綾松に突き付けた匕首の刃を見せつけるように綾松の喉に近づける。
「ここで金碗の娘の喉を掻き切っても良いのだぞ。殺しはせん。絵図が失われてしまうからな。だが傷を残すことは出来る。声を失わせることもな」
鬼黒の動きが止まる。一切のものが静止する。郭の中を大門を目指して逃げる人々の声と木材が焼け爆ぜ崩れ落ちる音が満ちる。火の手は刻々と迫る。
源四郎が声を上げた。不意に訪れた痛みを訴える声だった。源四郎の顔で赤い房が揺れた。鼻の付け根をしこたま打たれて源四郎が顔を顰める。黒光りするものが落ち綾松を締め上げていた腕が緩るむ。突き付けられていた匕首が綾松の喉元を離れて肩口で切っ先を天に向ける。
「行けっ」
叫びが上がる。鬼黒はその一声に弾かれて飛んだ。
綾松の両脇に伸びた鬼黒の手が帯を掴んで力一杯に下へ引く。綾松の体が源四郎の腕の中から引き抜かれる。鬼黒は倒れかかってくる綾松を肩の上で支えてそのまま担ぎ上げるようにして脳天で源四郎の顎を打つ。怯んだ源四郎が一歩二歩と後ろへよろける。鬼黒は右脚を源四郎の脇腹へ叩き込む。その反動を使って半回転し駈けた鬼黒は綾松を源四郎から引き離す。
綾松を肩から降ろして地面に座らせた鬼黒が叫びが発せられた方を向けば、愛用の捕物十手を投げつけたままの格好で一之進が立っていた。
「遅参致しました、服部様」
一之進が二本差しの侍に近づき頭を下げる。
「御手前拝見仕った」
服部茂十郎がにやりと笑む。
「何の。服部様の白扇投げには及びませぬ」
口の端を微かに上げて一之進は茂十郎に告げると鬼黒に向かって声を張り上げた。
「吉原四郎兵衛会所鬼黒こと、但州岩渕藩藩士大仁田左兵衛が一子大仁田新九郎。父左兵衛を虐殺せし敵葛野源四郎敵討の件。北町奉行所願書受理にて委細構わず。江戸北町奉行所同心富澤一之進並びに勢州桑名藩松平家中服部半蔵正賢様立会にて子細見届ける。本懐を遂げよっ」
一喝された鬼黒が立ち上がる。信じられぬといった表情の拭えない鬼黒に一之進は歩み寄り、腰から刀を外して鞘に巻き付けた下緒ごと掴んで水平に差し出す。暫し見つめる鬼黒だったがやおら両手で刀を受け、捧げて頭を下げる。
「……忝い」
侍の口調に戻って頭を下げた鬼黒に一之進が告げる。
「案ずるな。届け出のことは本当だ。全て儂とこちらの御仁に任せよ」
頷いてみせる一之進に鬼黒も頷き返し、長半纏の裾を払い除けて刀を帯に差す。それを見た茂十郎が源四郎の前に進み出て氷のような視線を向けて腰の刀を取り地面に置く。
「せめてもの情け。葛野源四郎。拾うて帯びるがいい」
「服部……半蔵……。矢張り徳川の犬だったか」
歯噛みをして漏らした源四郎に茂十郎が目を細めて冷たく言い放つ。
「ほざけ野良犬」
源四郎は置かれた刀を掴んで一気に引き抜き鞘を投げ捨てる。大仁田新九郎に戻った鬼黒は呼吸を整え鯉口を切って静かに構える。大上段に振り上げた刀を踏み込みながら源四郎が振り下ろす。鬼黒は太刀筋の外側、左へ踏み出して刃を躱す。籠手を打とうとした鬼黒の刀を肘を大きく左に振って源四郎が避ける。そのまま両者は晴眼に構えて間合いを取って向かい合わせで右回りに円を描く。
「若造」
源四郎が呟く。
「岩渕藩士の貴様の剣が直心影流ならば儂の剣も同じ直心影流。貴様の剣の弱みなど知り尽くしておる」
「ならば拙者。己の剣の強みを熟知している」
源四郎が脇を締めて右上段に構える。対する鬼黒は左半身で腰を据え柄を握った両手を右腰に当てて切っ先を相手に向ける。
一声吠えて源四郎が斬り掛かる。その刃の下で裂帛の気合いを放った鬼黒が左足を大きく前に踏みだし身を低くして両腕を前に伸ばす。右胸を突かれて源四郎が喉から呻きを吐いて一瞬力を抜く。それでも鬼黒を斬り伏せようと再度刀を振り上げる。素早く源四郎の胸から切っ先を引き抜いた鬼黒が渾身の逆袈裟を放つ。左脇から入った刃に肋骨を右鎖骨まで断たれて源四郎が崩れ落ちる。
「御見事っ」
ほぼ同時に一之進と茂十郎が声を上げる。残心を留めていた鬼黒は、仇敵が息絶えたのを確かめ身を伸ばし足を揃えて晴眼の構えを取り、右手で刀を一閃させる。血振りを済ませた鬼黒は刀を鞘に収めて一之進の前に進み出ると立て膝の姿勢で深々と頭を下げた。
「よくやったな」
一之進も鬼黒の前で立て膝になって言うと、鬼黒は腰から拵えを引き抜き受け取ったときと同じように恭しく水平に掲げた。
「誠に忝く」
再度頭を下げ直す鬼黒から刀を受け取ると一之進は鞘を帯に収めた。茂十郎はといえば源四郎の投げ捨てた鞘を拾って腰に差し、息絶えた源四郎の手から刀を取り上げて懐紙で刀身を拭っている。
「最期まで無礼千万な奴よ。鞘を打ち捨ておってからに」
自分の刀を蔑ろにされた腹立ちとも、武士の一分を保てなかった男へ向けた貶みとも哀れみとも取れる言葉を発して茂十郎は源四郎の骸を見下ろした。
茂十郎は源四郎の上に懐紙を投げると静かに刀を鞘に収めた。鯉口が刀身を呑み込み、ぱちん、と音を立てると茂十郎は一同を見回した。
「さて。事も済んだし郭から出ねばならん訳だが」
思案顔で茂十郎が呟く。
「どうしたものかな」
これまでと打って変わった呑気な声で茂十郎は腕を組んで顎に指を這わせる。一之進は眉を上げて鼻から息を吐く。通りの向こうから源四郎一味が放った火が迫ってくる。逼迫した状況の中、茂十郎の一言が一之進の気を和らげ些かの余裕を生み出した。
「お任せあれ」
一之進が郭を囲む黒板塀に歩み寄り、着流しの裾を捲り上げて両手で掴むと、大股を開いて塀を蹴り始めた。
「そんな程度で壊れる塀じゃない」
鬼黒が深刻な顔で一之進の背に叫ぶ。
「そんな。ことはな。重々な。承知よ。だがな。儂もな。伊達にな。町方をな」
一之進は塀を蹴る度に言葉を切る。
「してな。おらんの。だっ」
言い切った一之進の足が塀にめり込んだかに見えた。黒板塀を形作っていた板が大きく向こうに傾く。
「ここかっ」
一之進は更にその両側を蹴りつける。最初の一枚に釣られるようにして二枚、三枚と板が倒れる。一之進が足を降ろして着物の裾を離したときには忍び返しを上に頂く黒板塀に人が通れる隙間が出来ていた。
「賊が逃げるための算段を忘れる訳がない」
一之進は振り返って得意げに言った。
「成る程。こう仕掛けておったか。賊ながら天晴れ天晴れ」
腕組みしていた茂十郎塀の穴を覗いて感心したように頷く。
「倒れた板が丁度どぶに掛かって橋のようだわい。これなら婦女子も容易に渡れるだろうよ。なぁ」
穏やかに言って茂十郎は鬼黒に目配せをする。意味を図りかねた様子の鬼黒の顔が暫くして雷に打たれたかのように変わる。鬼黒が綾松に駆け寄る。肩に手を掛けられた綾松が鬼黒を見つめ促されるまま立ち上がる。鬼黒は綾松に肩を貸しながら塀の穴へと進み行く。
「では。娑婆見物と洒落込もうかの」
快活に言って茂十郎は鬼黒に支えられた綾松を先に通す。二人が無事にどぶを渡り終えて向こう岸に辿り着くのを見届けると真顔に戻って一之進の傍らへ寄る。
「小者は捨て置くが良かろう。息を吹き返したとしても穴の向こうで張っておれば問題ない。どのみち逃げ道はここしかない。一網打尽に出来る。焼け死ぬのであれば……それだけのこと」
「承知」
一之進は短く答える。
「それにしても。天晴れで御座いますな。服部様」
一之進は笑みを浮かべて茂十郎に語り掛ける。呑気な風を装ってみたのは綾松のことを思ってこそ。兇賊に襲われ火に追われ、我が手で親の敵に一矢報いること叶わず、喉元に刃を突き付けられ、あまつさえ人一人斬られる光景を目にした綾松の心中。その乱れは如何ほどか。恐怖は。無念は。その心持ちを少しでも穏やかにしてやろうという茂十郎の心遣いを一之進は察していた。
「何の。儂も伊達に歳を食ってはおらぬよ」
茂十郎は軽口を叩いてにやりと笑ってみせる。
「さぁ。我らも参ろう」
「はっ」
茂十郎が穴を潜る。一之進も後に続く。そうして九郎助稲荷前は一時の静けさを取り戻した。
重なり合う人影が葦原を進む。時折影は大きく沈み込むが、じきに伸び上がって一歩、また一歩と前へと足を踏み出す。
鬼黒は時折ぬかるみと茂る葦に足を取られて転びそうになる綾松を支えて、夜の闇に赤く浮かび上がる郭から離れようと両脚を踏ん張る。綾松も必死に足を進めるが地面から湿気を吸った花魁の装束は重く思うように歩けない。立ち枯れた葦が二人の頬を打つ。裸足の綾松の足裏を刺す。
「気をしっかりと持て」
鬼黒が綾松を励ます。綾松は、かくん、かくんと頭を振って声もなく応える。二人の息が上がる。何度も膝を突きそうになる。そのたびに鬼黒は綾松に声を掛け自らをも鼓舞する。
鬼黒の腕が不意にこれまでにない重みを感じる。綾松の体が腕の中からすり抜ける。まだだ。まだ進まねば。鬼黒はしゃがみ込んで綾松の脇に腕を通そうとする。綾松が身を捩って腕から逃れる。鬼黒が再度腕を回して立たせようとすれば、綾松は体を大きく左右に振ってその腕を振り解く。
「どうした。何をしている」
鬼黒が焦りの混じった声を上げる。綾松は座り込んだままだだをこねる子供のように首を振る。
「ここで……」
「何を言う」
前に回り込んで鬼黒が綾松の肩を揺すぶる。綾松は右手を伸ばしてその胸を突き、我が身から引き剥がす。
「ここで……」
息も絶え絶えに綾松が漏らす。
「馬鹿を言うなあっ」
被りを振って鬼黒が叫ぶ。
「諦めるな。こんな所で諦めるんじゃないっ」
悲しみと怒りを込めた鬼黒の雄叫びが天を突き葦原に響き渡る。
「ちがう……ちがうの……」
がっくりと俯いた綾松の口から言葉が零れる。
「何が違う。俺一人で行けと言うのか。お前を置いてっ」
郭の女は塀の外には出られない。例え抜け出したとしても地の果てまでも追いかけられ、草の根分けてでも探し出されて、見せしめのために言葉に尽くされぬ責め苦に遭う。そのために命を落とすものもいる。そんな目に遭うくらいなら身を焼かれてここで果てるのが良いとでも言うのか。生きながら焼かれる苦しみの方がましだとでも言うのか。鬼黒は大きく被りを振った。
「死なせるものか」
鬼黒が綾松を抱え上げようと腕を回す。その体を両手で力一杯に突き飛ばして綾松が叫ぶ。
「ちがうっそうじゃないのっ」
綾松の叫びに打たれて腰をぬかるみに濡らした鬼黒が凍り付く。
「ちがうの。そういうことじゃ。ないの」
綾松は肩を激しく上下させてそれだけ言うと鬼黒をじっと見つめた。沈黙が二人の間に横たわる。ただ息づかいだけが互いの耳に入る。綾松の喘ぎが次第に収まり上下する肩の動きが緩やかになる。綾松が大きく息を吸いゆっくりと吐く。長く尾を引く呼気の音が止むと綾松の背筋がぴんと伸びた。
綾松の手が動く。右の手が左の手が体の前で上に下に左に右にと素早く動く。衣擦れの音がして胸の前で結ばれた俎板が解かれていく。腕か繰られて幅広の帯がはらりと落ちる。綾松は立ち上がりながら三枚襲の仕掛の衿をぐいと掴むと両腕を広げて後ろに跳ね落とす。
「これで随分と軽くなりました」
緋縮緬一枚になった綾松は裾を取って臑を晒すとにっこりと笑って駈け出していく。呆気にとられてその後ろ姿を目で追う鬼黒だったが、笑い声を上げて腰を上げ駆け去る背中を追って走り出す。
一町。一町半。葦を掻き分け二人が駈ける。二町ほど走った所で緋縮緬が葦の中に消える。その場所で黒い長半纏も葦の中に沈む。足を滑らせ前にのめった綾松の体と、先に倒れて投げ出された綾松の足に躓いて転んだ鬼黒の体が重なる。二人の口からほぼ同時に踏み潰された蝦蟇のような声が漏れる。
暫く湿った土の上に伏せていた二人の体が、ひくりひくりと痙攣し出す。俯せの姿勢の綾松の膝から下が左右交互に持ち上がり地面をばたばたと蹴る。倒れた鬼黒の体がごろりと横になり胃の辺りを両手で押さえて膝を屈して丸くなる。二人の体は痙攣し続けている。
やがて低い笑い声が二人の口から漏れ出す。綾松が寝返りを打って仰向けになる。鬼黒も体を伸ばして仰向けになる。二人は空を仰いで声を出す。大きく体を揺すってからからと笑い声を上げる。
ひとしきり笑った綾松が鬼黒の方に顔をを向ける。鬼黒も首を捻って綾松の方を向く。綾松の手が、す、と崩れた横兵庫に伸びて一本の簪を引き抜く。それを目で追っていた鬼黒の鼻先に白甲の見事な細工がそっと差し出される。鬼黒はそれを取って空を仰ぐとゆっくりゆっくりと手の中で感触を確かめる。指先が彫刻の凹凸の上をを何度も何度も往復する。
やがて鬼黒は懐から根付を取り出して綾松に差し出す。綾松はそれを受け取り鬼黒が自分の簪にしたように。手で包み、形を確かめて、愛おしそうに指の腹で撫で続ける。
鬼黒が無言で綾松に開いた手を差し出す。綾松は頷いて根付を鬼黒に返す。鬼黒は左右の手に簪と根付を持ち、その二つをゆっくりと重ねていく。目に近づけて溝を確かめる。波形に彫られた縁を合わせる。やがて組み合わされた細工彫りが音もなく接合し、身を寄せ合ってそれぞれの片翼で羽ばたく番の鳥が姿を現す。
鬼黒はそれを腕を伸ばして天に掲げる。掲げられた手に綾松がそっと手を添える。
「真砂……」
「新九郎さま……」
二人は囁き合う。
鬼黒は鬼黒ではなく大仁田新九郎となった。
綾松も綾松ではなく金碗真砂となった。
そうして伸ばされた腕の先にある比翼の鳥を二人は眺めた。力強く天に羽ばたくその姿をじっと互いの目に焼き付けた。
星が空を流れた。
新九郎も真砂も誰かに笑いかけられた。そんな気がしていた。
(八)
浅草寺の境内の隅で鬼黒は石に腰掛け黒い瓦に覆われた本堂をぼんやりと眺めていた。三月下旬の陽の光は柔らかくそのぼってりとした入母屋造の屋根の上に降り注ぎ、微かな風は扉の前に下げられた刺繍の施された帳の上で遊んでいた。雲一つないよく晴れた日だった。あの大晦日の夜のような体の芯まで凍らせるような寒さはもうなかった。
あの日吉原は一晩中燃え続け、その八割方を灰にして明け方に漸く鎮火した。
郭の裏手で鬼黒はその燃え上がる郭を眺め、凍える体を綾松と重ね互いに内から湧き出す熱で温め合い朝を迎えた。空が白み年の初めの日が昇るのを見届けて二人は大門に回った。門の前は郭から逃げ出した者、火事場見物に押し掛けた者、火消、役人たちでごった返していた。その人混みの中二人は別れた。鬼黒は四郎兵衛会所の若い者として、綾松は萬屋の花魁としてそれぞれの場所に戻った。
あれから二人は言葉を交わしていない。
鬼黒の背に当たる陽の光が形作る背の低い影の横に、背の高い影が並ぶ。
「元気そうだな」
鬼黒が振り返ると、そこに一之進の姿があった。
「お蔭さんで」
また元のように浅草寺本堂を見上げて鬼黒は言った。
「お暇そうで」
「御陰様でな」
ぽつりと呟く鬼黒に一之進が応える。
郭での一件の後一之進は多忙を極めた。避難した郭の人間の確認、焼け死んだ者の遺体の確認と身元の割り出し、その他諸々。それらを漸く済ませて体の空いたところで、次のお勤め前の暫しの非番を甘受していた。
大半が焼け落ちた吉原では顔番所はもう用をなさない。一之進は奉行所内勤を仰せつかるだろう。そうなれば八丁堀組屋敷と奉行所を往復する日々となり、御役によっては自由に江戸表を歩く余裕もなくなるかも知れない。
そうなる前に一之進は鬼黒の様子を確かめておこうと、人伝に居場所を尋ねてここに来たのだっだ。
「色々世話になりやした」
鬼黒が背を向け座ったまま言う。一之進はそれを咎めることもなく足を進めて鬼黒の横に並んで石に腰を下ろした。
殊更に世話をした訳ではない。ただ御役目を全うしただけだ。一之進はそう思ったが口には出さなかった。
焼け残った九郎助稲荷前で斬殺体が発見された。その周りで火事の煙と熱気を吸って息絶えたと思われる門付芸人たちの遺体も見つかった。直ちに町奉行所が動いた。一之進は上役の与力を通じて奉行依田和泉守に、遺体は但州岩渕藩で犯罪を犯し脱藩した葛野源四郎という男であること、斬ったのは但州岩渕藩藩士大仁田新九郎であること、私闘ではなく仇討ちであったこと、そのことは既に奉行所に届けられていることを上申し、葛野とともに見つかった男たちは葛野の手先である狼藉者であると報告を行った。
直ちに大仁田新九郎捜索の命が下り、吉原四郎兵衛会所で鬼黒と名前を変えていた新九郎が引き立てられた。新九郎は詮議に対して届け出にある通りの供述をし、そこに至った過程について説明を行った。それを受けて岩渕藩江戸屋敷に確認が行われたが、藩の記録との齟齬を指摘され詮議は難航した。
そこに火付盗賊改方が横槍を入れてきた。葛野の配下とされる男たちが吉原に火を放ったことの証言があり、鬼黒こと大仁田新九郎もその一味であったことが疑われた。一之進は自分が仇討ちの場で実地に見届けた子細を申し渡して大仁田新九郎は火災とは無関係と主張したが、火付盗賊改方の身柄の引き渡し要求は取り下げられることがなかった。
大仁田新九郎の身柄は奉行所から小伝馬町牢屋敷へと送らた。町奉行所と火付盗賊改方の間で詮議の主導がどちらで行われるべきかと争いが続いた。
早急の解決を望んだ一之進は、両者が審議を重ねる間、葛野の手先となった者が他にいないか探した。もしその者の口を割らせることが出来れば、晴れて新九郎の付け火荷担の疑いは晴れ、仇討ちの詮議のみとなって縺れてしまった糸を解きやすくなるのではないかと考えた。
結局吉原で死んだ者以外に葛野の手下を見付けることはなかった。新九郎はそのまま小伝馬町牢屋敷で過ごすことを余儀なくされた。
事態が急変したのは新九郎が小伝馬町に送られて半月ほどたってからのことだった。急遽下った火付盗賊改方長官の命により、身柄引き渡しの要求が取り下げられた。子細は語られることはなかったが、さる大名筋からの要請があったということだけが伝えられた。
詮議は町奉行所主導に一本化され、最終的には大仁田新九郎は仇敵葛野源四郎を討ち果たし、その結果吉原炎上を謀った兇賊葛野をも成敗したとされ、お構いなしとして放免された、その背後にもまたさる大名筋からの要請があったと噂された。
一之進はその大名筋からの要請という話に、茂十郎の顔を思い浮かべた。実際に茂十郎の働きが裏であったかどうか確かめる術はなかった。しかし一連の詮議で全ての元凶となった金碗一族の秘事についての取り調べが一切行われなかったことに、一之進は茂十郎の力添えがあったであろうことを疑わなかった。
燃え盛る吉原から共に脱したあの日、隠し銀山に本当に埋蔵金は眠っているのだろうかと疑問を漏らした一之進に茂十郎は応えた。
「あるともないとも言えん。むしろあるともないとも言わんのが正しい。今の世に公に扱われる以外の金銀が流れれば、相場はたちまち混乱を極める。そうなれば御公儀の政ばかりではなく、諸国の民草、町の庶民の暮らしそのものが立ち行かなくなる。苦しむ者が多く出る。死ぬ者も多く出る。ならば本当にあるかないかについて詮索するよりも、最初からそんな話は聞かなかったことにして捨て置くのが得策というものよ」
茂十郎は重ねて言った。
「金碗一族の秘事など時の流れに埋もれてしまえばいいのよ。金碗の娘だった女が生き、その女と互いに思い合う一人の男が生きている。それだけで良かろうよ」
一之進も心底そう思った。
一之進はすっかりと痩せ細り、肉の削げてしまった鬼黒の顔をさりげなく眺めた。
吉原が苦界なら小伝馬町牢屋敷はこの世の地獄。中での暮らしは陰惨を極める。名主を頂点に牢内の力関係は囚人の手で厳密に組まれ、その仕組みについては役人も口を挟まない。力のない者は食事も寝床も満足に得られず、収監されている間に詮議の決着を見ずに命を落とす者も数知れない。それでもこの男は辛抱強く耐え、生きて出て来た。一之進にはそのことが嬉しかった。
「綾松はどうしているかな」
ぽつりと一之進が零す。
「仮宅で宜しくやってるさ」
ぽつりと鬼黒が呟く。
郭の妓楼は焼けてしまったが、妓楼主は御公儀のお墨付きが得られれば、郭が再建されるまで民家や商家を借り受けて仮の妓楼を開くことが出来る。あの火事で萬屋も全焼してしまったが、火から逃れることも出来た主惣右衛門も生き延びた者を集めて深川仲町で仮宅を開いている。
「そうか」
一之進は造りも飾りも元の萬屋とは比べるべくもなく狭く質素になった場所で、凜と背筋を伸ばす花魁の姿を思い浮かべてほんの少し微笑んだ。
「貴様はどうするんだ。新九郎」
急に古い名前で呼びかけた一之進に鬼黒が頭を巡らす。
「どうとは」
「綾松の年季も後数年で終わるのだろう? 一緒に国元に帰らんのか。仇討ちの件、藩に認められたなら再び仕官することも出来るだろうに」
問われた鬼黒は暫く黙り込んでいたが、一之進の呼んだ大仁田新九郎として答える。
「一度改易して他の藩士に分け与えらた俸禄を再度取り上げるような真似は致しかねる。恨みを買い新たな火種を生む事になりかねぬ故。父も要らぬ争い事はすべからず。生きておればそう言いましょう」
鬼黒はゆっくりと立ち上がる。
「それに」
線の細くなった体に纏った黒い長半纏の裾を翻して鬼黒が振り向き一之進を見つめる。
「それにその名はもう捨てたんだ。大仁田新九郎はもういない。いるのはこの俺。ただの鬼黒よ」
鬼黒の顔に笑みが浮かぶ。その笑みに何か吹っ切れたようなものを感じて、一之進はそれ以上言うのを止める。
「では。旦那。これで失礼致しやす」
鬼黒は一人の町人として武士である一之進に丁寧に頭を下げると、ゆっくりとした足取りで立ち去る。一之進が立ち上がり、黒い長半纏の背に問い掛ける。
「そのうち蕎麦でもどうだ」
返事の代わりに鬼黒の口から新内節の一節が流れ出す。
暫く見送った一之進が、やおら踵を返して歩み出す。互いに背を向け合い離れて行く二人の頭上を一羽の鳥が飛ぶ。
鳥は暫く男たちを見下ろすように、空をゆっくりと旋回していたが、やがて何かに導かれるようにして力強く羽ばたくと、西の空へと消えていった。
【主要参考文献】
永井義男『図説吉原事典』朝日文庫、二〇一五年。
三谷一馬『江戸吉原図聚』中公文庫、一九九二年。
佐藤要人・編『三省堂川柳吉原便覧』、三省堂、一九九九年。
湯沢幸吉郎『廓言葉の研究』明治書院、一九六四年。
稲垣史生『時代考証事典』新人物往来社、一九一年。七
稲垣史生『続・時代考証事典』新人物往来社、一九八五年。
横倉辰次『江戸町奉行 江戸時代選書6』雄山閣、二〇〇三年。
笹間良彦『図説江戸町奉行所事典』柏書房、一九九一年。
西山松之助・ほか編『縮刷版 江戸学事典』弘文堂、一九九四年。