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(七)

「え」
 急に強まった雨が窓の外で音を立てる。その音に紛れてしまい聞き間違いでもしたのかとお吟は露菊に聞き返す。
「何だって?」
 お吟に背を預けもたれ掛かって窓の格子の方を向いたままの露菊が言う。
「この身を請け出したいと。そう言われんした」
 聞き間違いではなかった。露菊は身請けの話が持ち上がっていると確かにそう言ったのだ。口を噤んだお吟の鼻から長い息が漏れた。
 揚羽屋での一件の後、お吟は露菊に誘われるままこの出会茶屋の二階に通うようになった。既に揚羽屋を得意先としている髪結いを押し退けて露菊の髪を結うわけにはいかないし、昏倒し医者まで呼ばせて大騒ぎした手前おいそれと揚羽屋で露菊と会うわけにはいかない。
 お吟は自分の思い人だった人と同じ耳をした露菊に会うことを切望した。今となっては思い人の影を露菊に求めるというよりもむしろ、自分の内に長く凝っていた苦しみを和らげてくれた露菊その人に傍にいて欲しいと思っていた。
 露菊は露菊でお吟のことを案じていた。人の顔が分からないというお吟の有様が生来のものではなく、その背後にある非業に端を発するものだと知ってしまった。知ってしまった以上忘れ去ってしまうことは出来ない。幼子のように露菊の胸に顔を埋めて号泣したお吟の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
 露菊は見世に迷惑の掛からない範囲で昼見世に限って暇を作るようになった。暇を作るとはいってもあくまでも身揚がり、本来見世に出て稼ぐはずの揚げ代を自分で妓楼に払って代わりに手にした休みだった。お吟は露菊が徒に借財を増やすだけだと気に病んだが、露菊は花魁の身ならばいくらでも直ぐに稼ぎ返せるとお吟を諭した。
 そうして逢瀬は続いた。
 ただ身を寄せ合い他愛のない話に興じた。時にお吟は露菊の髪を丁寧に丁寧に梳かし、時間を掛けてゆっくりと結い直してやった。露菊はその間お吟に常磐津や河東節を唄って聴かせた。お吟にもたれ掛かり背に伝わるお吟の温もりを感じながら微睡むこともあった。
 互いに互いの躰を求め貪ることはなかった。それよりもただ触れ合うことに喜びを、ただ語り合い共に時を過ごすことに至福を感じていた。
「身請け話があるんだ」
「あい」
「それは……良かった。ほんとに良かったじゃないか」
 微笑んだお吟だったが、その笑みには心底喜んだ様子は浮かんでいなかった。嬉しさ半分、寂しさ半分。露菊が苦界から抜け出せることは喜ばしいが、そうなればこうして頻繁に会うことは叶わなくなるだろう。お吟の胸に複雑な思いが渦巻いた。
「どこの御大尽だい?」
「木場の木曽屋の大旦那でおざんす」
「へぇ。そうかい」
「前々に家督を譲って隠居すると聞いていんしたが、先だってわっちを請け出して傍に住まわせるとおっせえした」
「そうだったかい」
 お吟はもたれ掛かる露菊に後ろから回した両腕に力を込めた。抱き竦めながら露菊に、そして思い切ろうとする自分に言い聞かせるように囁く。
「幸せにおなりよ」
 その言葉に嘘偽りはなかった。お吟は露菊に焦がれる自分の思いよりも、今の思い人である露菊の幸を望むことを選んだ。
「幸せで……ありんすか……」
 そう呟いた露菊の声には力がなかった。露菊の眉間に皺が刻まれたが、お吟からは見ることが出来なかった。暫し露菊は項垂れて黙り込んでいたが、背後から自分を抱きしめるお吟の腕に手を添えてゆっくりと言葉を吐く。
「わっちは……断る積もりでおざんす」
「え」
 お吟が目を見開く。
「嫌な相手なのかい?」
「いいえ。根の優しい人だと、そう思いんす」
「他に思う相手がいるとか」
「そんな人はいんせん」
「なら何で」
 露菊はお吟の両腕を下へ押し遣ってそっと外すと、上体を捻ってお吟に向き直った。
「わっちの妹達が気がかりでおざんす。まだまだ子供で」
「あっという間に大きくなるのが子供ってもんだ。心配は要らないさ」
「それに……お吟さんが一人になってしまいんす」
「馬鹿言ってんじゃないよ。十四や十五の小娘じゃないんだよあたしは」
 お吟は大袈裟に呆れてみせる。露菊にはその話、受けて貰わねば、折角振り切った自分の思いがまた元に戻ってしまう。露菊に甘えてしまう。求めてしまう。
「郭を出て幸せになるんだよ。あんたは」
「幸せには……幸せにはなりんせん。わっちは……わっちは……」
 露菊は目を伏せる。
「わっちは幸せになどなってはいけないのでおざんす」
 顔を歪ませ露菊は吐き出した。
「何を……」
 露菊の表情を読むことは出来ないが、いつもとは異なる声の震え具合と乾ききった響きにお吟は尋常ならざるものを感じた。
「わっちは……沢山の人を死なせてしまいんした。命を奪ってしまいんした。そんなわっちが幸せになどなってはならないのでおざんす」
 一時強かった雨脚が弱まり雨音がすうっと弱まった。遮る音もなく露菊の消え入るような声は過たずお吟の耳に届いた。また口を噤んでしまった露菊の言葉をお吟は辛抱強く待った。無闇に問い掛けて言葉を引き出そうとしても露菊は己を固く閉ざしてしまうかも知れない。今は語るに任せた方がいい。お吟はそう判断した。
「わっちは……殺めてしまった人達のために望んで郭に入ったのでおざんす」
 露菊は訥々と語り出した。

――わたしの生まれは奥州です。生家は八戸で廻船問屋を営んでおりました。わたしは一人娘として大切に大切に育てられておりました。決して我が儘に育った訳ではありません。ただ。あまりにも世間というものを知らずにおりました。
 三代栄えた廻船問屋を継いだ父は、四代目という地位に胡座を掻かずにいつも新しい商売を工夫し、辣腕を振るってお店を切り盛りしておりました。
 わたくしが十を迎えるある春先のことで御座います。先年より拵えておりました菱垣廻船が三艘、八戸の港に浮かびました。父が新たな商売のためにと、相当の家財を注ぎ込んで造ったものでした。
 当時は御用米の運搬を承っておりましたが、父はそれに加え、松前から昆布や鰊、鮭を運び、途中宮古や石巻からも鱶鰭、干鮑、煎海鼠を積んで東廻りで運び捌く商いを始める積もりでおりました。西廻りを進む北前船に負けじと利を上げることを目論んでおりました。
 はっきりと覚えております。港に浮かぶ三艘の真新しい船の姿を。まだ汚れなどない白木の舳先、艫、帆柱。錆など知らぬ黒金具や鋲の数々。新調された帆布の張り具合。その堂々とした姿に子供心に胸が高鳴ったものです。わたしが。わたしがあんなことを思わなければ。あんなことをしなければ。今でもあの菱垣廻船は海を渡っていただろうに。
 乗ってみたくなったのです。子供のほんの出来心です。あの真新しい船が知らない場所へ連れて行ってくれる。どんな場所だろう。どんな景色が見られるだろう。滑るように海を走る船はきっと素敵な所へ渡しを運んでくれるんだ。出港を前にわたしは船底へと潜り込んだのです。
 馴れぬ船旅は散々でした。地面がないのです。始終揺られて頭の中を揺さぶられかき回される心地がしました。船酔いでわたしは隠れた場所から一歩も動けませんでした。そのことが大人達がわたしに気付かなかった訳の一つだったと思います。
 石巻を出たところでとうとうわたしは見つかってしまいました。その頃はわたしもすっかり回復していて、積んである水も食べ物も隠れて飲み食い出来るようになっていました。水や食べ物が妙に減る。怪しまれるのも当然のことです。
 船はもう八戸に引き返すことの難しい所まで来てしまいました。引き返してわたしを船から下ろすなどすれば、積み荷を届ける時期が大幅に遅れてしまいます。近くの港に下ろすにしてもそれだけ無駄な時を費やしてしまいます。廻船問屋の主の娘を海に放りだして捨ててしまうことも船乗り達には出来ませんでした。わたしは結局江戸表までそのまま連れて行かれることになりました。
 潮風は心地いいものでした。見上げる空はどこまでも青く水平線の彼方で碧い海と交じり合っていました。夜に甲板から見上げる星は瑠璃玻璃よりも美しく感じました。そんな綺麗な景色もいつまでも続くものではありませんでした。海は本当は怖いものなのです。容易にその貌を変えてしまうものなのです。
 江戸が近づき房総の沖合に差し掛かった時です。大きな時化に見舞われました。房総の沖は難所と船乗り達に恐れられている場所です。心を砕いて嵐の時期を避けてはいたのですが間の悪いことはあるものです。船はたちまち上も下も分からない位に大波に揉まれてしまいました。為す術などありません。船乗り達は船の中に祀られた船霊さまを拝み無事に難所を越えられるよう願うばかりでした。
 知っていますか。船霊さまは女の神様なんです。船乗りの男達は守りますが女を嫌う神様なんです。船に女は乗ってはいけないのです。女が乗ると船霊さまの気に障りよくないことが起きるのです。わたしは女です。その意味があなたに分かりますか。
 船は悉く荒波に薙ぎ倒され沈んでしまいました。積み荷は流されてしまいました。多くの船乗り達が海の底へと消えていきました。九十九里に打ち上げられ難を逃れた者はわたしを含めて数える程しかいませんでした。
 人も、物も、損害は莫大なものだったのです。廻船には問屋の株仲間があって船の難破や積み荷の損失を互いに補い支え合う仕組みがあります。けれどもそれでは補いきれなかった。大量の御用米については如何ともし難かった。船を新造した大きな出費はこれからの商いで埋めることは出来なくなってしまった。何より働き盛りの船乗り達を失った家族は稼ぎ手がいなくなってしまった。異郷で亡骸さえ骨の一本さえ拾うことが出来ないんですよ。あの人達の。
 わたしは暫く廻船問屋の株仲間の伝で勝浦に身を寄せていましたが、十四の時に女衒に身を委ねることにしました。お金が欲しかったのです。親不孝な娘がしでかしたことの穴を少しでも埋められるように。証文で借りたお金でお墓を作りました。いくつもいくつも。それでも足りません。何よりも残された船乗り達の家族にほんの少しずつでも償わねばなりません。
 わたしが。わたしがあの日船になど乗りさえしなければ。船霊さまの怒りを買うようなことをしなければよかったのです。わたしが――。

「なので……。なのでわっちは郭を出ることが出来んせん」
「な」
 お吟の喉から強く短い声が放たれた。それを合図にしたかのようにまた雨脚が強まった。
「幸せになどなっては……殺めてしまった人たちに顔向けなど出来んせん」
「知らない知らないよそんなことっ」
 叫ぶお吟の顔が瞬く間に赤くなった。
「あんた。あんたは何だ?」
「わっちは……この揚羽屋の花魁でありんす」
「そうだ。そうだよ。でもそうじゃない。そういうことじゃないんだ」
 詰め寄ったお吟の両手が露菊の両肩を強く掴む。お吟の紅潮した顔が露菊の鼻先に迫る。
「なぁ露菊。あんた。人だろ? 花魁だなんだの前に人なんだろ?」
 言い返す言葉が見つからず見つめ返すばかりの露菊に更にお吟が畳み掛ける。
「あんたは人だ。木の股から生まれたわけじゃない。ちゃんと二親の間に生まれた人だ。魑魅魍魎なんかじゃない。御祈祷して念仏して祓うようなもんじゃない。人なんだよ」
 お吟は露菊の肩に掛けた両手に更に力を込めて揺すぶり怒気を孕んだ声を上げ続けた。
「人が。人として生まれた者が。幸せになっちゃいけないって言うのかい。幸せを望んじゃいけないっていうのかい。そんな道理はない。そんな理屈なんかありゃしない」
 揺れ動くお吟の瞳から目を逸らすことが出来ず、浅い息をする露菊の耳に絞り出すような声が滑り込む。
「あんた。幸せにならなきゃいけない。幸せになって欲しいんだあたしは。でなきゃ……」
 一瞬の間を開けお吟が俯き漏らす。
「そうでなきゃあたしは……困る……」
 肩を落としお吟は首を振る。部屋の中に雨は降らないがその様は雨粒の矢を全身に受けて力を奪われてしまったかのようだった。
「あたしは船霊さまのことはよく分からない。でもあんたが船に乗ったことで罰が当たったなんてことは考えなくていいんじゃないのかい? 海の難所だったんだろ? あんたのせいだなんて本当に言えるのかい?」
 そんな確かかどうかも分からないことで人の命を奪ってしまったなどと言うのならば。あたしは父を姉を大勢の奉公人達を。この手に掛けて殺したのと同じじゃないか。人殺しはあたしの方じゃないか。お吟は迸りそうになる言葉を喉の奥で抑えた。
「郭を出なよ。誰も責めはしないさ」
 露菊の肩を掴むお吟の手に力が籠もる。
「いい機会じゃないか。な。な?」
 揺さぶられる露菊はただゆっくりと首を横に振るばかりだった。
「そうかい」
 お吟は溜息交じりに呟く。奥歯を噛み締めた頬が小刻みに震える。
「聞き分けてはくれないんだね」
 お吟は露菊の肩から手を外し低い声を出す。お吟もこんな射るような目をするのか。これまで見たこともない険しい顔つきを見て露菊は思った。
「あたしは決めたよ」
 いきなり仁王立ちになりお吟は露菊を睨み付ける。鋭い視線が露菊を刺す。その目が固い決意を湛えていることを露菊は読み取った。
「一体何を……」
 そう言い掛けた露菊が言葉に詰まる。お吟の両手が伸びる。固く強ばった指がぶるぶると震えている。掴み掛かるのか。まさか。その手をこの首に掛けるとでもいうのか。
「何をしんすか」
 お吟は応えない。両手を構えたままでひたすら露菊を睨み付けながら迫ってくる。
「やめなんし」
 露菊が消え入りそうな声を出す。
「あたしは」
 押し出すようにお吟が唸る。
「あんたがこれまで誰にもされなかったようなことをするよ」
 気圧されて露菊の腰が引ける。手を突いて後ろに下がろうとするのだが、長座となって押し出す足は畳を上手く捉えることが出来ず、中々思うようには進めない。割れたから緋縮緬から露わになった白い向こう臑がわななく。露菊は先程から頭の中に明滅する心中という言葉を振り払うことが出来ない。
 お吟が露菊に飛びかかった。勢いよく突き飛ばされた露菊の背に強い衝撃が走る。
「堪忍しておくんなんし。頼みんす。拝みんす」
 消え入る声を絞り出して露菊はぎゅっと目を閉じる。ああ。括られる感覚というものはどんなものなのだろう。じわじわと息が出来なくなるのだろうか。それとも一気に止まってしまうのだろうか。首はどの位痛むのだろう。あの日荒れ狂う海で溺れた時はかなりの苦しさだった。またあんな苦しさを味わうのだろうか。
 想像するのを止めて露菊は体の力を抜いた。憎からず想う人の手に掛かるのならばそれも悪くはないのかも知れない。ならば。どうぞ一思いに。露菊は少しでも絞めやすいようにと頤を上げてお吟の手を待った。
 横たわった露菊の足下で衣擦れの音が聞こえる。馬乗りになってくるかと思うが、露菊の胸に重みは一向に掛かってこない。躊躇うのか。今になって。これでは蛇の生殺しではないか。煩悶する露菊は不意に脹ら脛に生暖かいものを感じた。
 掴まれている。お吟の手は首ではなく脹ら脛を掴んでいる。足が持ち上げられ、太股の上を布が撫でる感触が襦袢がはだけ落ちるのを告げている。お吟の手は足の指先から足の裏、足の甲からかかとまで全てを這い回る。時折訪れる甘やかな感覚に、あ、と短い声を吐き、思わず露菊は両手で顔を覆う。こんな時に自分の躰の女郎の部分がお吟の手に応えてしまうなんて。頬が熱い。いま自分の顔は真っ赤に染まっていることだろう。その考えに露菊は堪らなくなり息を吐いた。
 何かが足全体に広がる。これは何だろう。この肌触りは木綿だろうか。足全体が布に覆われているのか。お吟の指が露菊の指の股を割る。足首の腱が何かで引っかかれる。お吟の丸い爪ではない。もっと長く固いもの。そこで漸く露菊はお吟が自分の足を愛撫しているのではなく、何を目論んでいるのかを察した。
「目を開けて見なよ」
 お吟の声に露菊は肘を突いて上体を起こす。ああ、と露菊は息を漏らす。肌襦袢の緋色の向こうに白足袋に包まれた自分の足が見える。お吟はと見れば素足になって足袋足の前に座り込みこちらを見つめている。
「こうやって履くんだよ」
 お吟の声からも顔つきからももはや険しいものは消えていた。
「暖かいだろ?」
 腰を浮かせてお吟が露菊の脇へ寄り、すっかり身を起こした露菊の首の後ろに右手を掛ける。
「足袋なんて履いたことないだろ。でもこれからは足袋を履く暮らしをするんだよ。こんな風にさ」
 女郎は年中裸足で過ごし真冬でも足袋を履かない。確かにこれまで誰にもされたこともないことをお吟にされてしまった。露菊の眉根が上がり口元が歪む。ああ。足に伝わるこの温もりは木綿の温もり。いや、それだけではなくてこれは先程までこの足袋を履いていたお吟の肌の温もり。
「他の人の足袋を脱がせて履く暮らしをしろといいんすか?」
「い、いや、それは。だって今ここにはこれしかなかったから……」
 露菊の少し意地悪な物言いにお吟がしどろもどろになる。慌てる顔が愛らしい。先程の強ばった顔つきよりもこちらの方がずっとずっとお吟らしい。露菊は目を細める。その目尻が微かに涙で濡れる。
「暖かい。暖こうおざんす」
 横座りになった露菊は足袋に手を伸ばしそっと撫でる。
「これが……お吟さんの足袋……」
「いや、ちょっと、そんなに撫でないどくれよ」
 お吟が息を吹きかけ熾された火鉢の炭のように急激に赤くなる。郭の外の暮らしを思わせようとの思いつきを勢いに任せてしてしまったが、落ち着いてみれば何とも気恥ずかしいとんでもないことをしでかしてしまったとお吟は焦った。
「ではわっちも」
 不意に露菊が立ち上がりお吟を見下ろす。
「これまで味わったことのないようなことを味わって貰いんす」
「え、ちょっ、何を……」
 露菊は手早く帯を解き足下にはらりと落とす。襟に手をやり胸元を大きく開いて肩を抜く。後ろ手に袖から腕を抜いてすっかりと着物を脱ぎ去り、肌襦袢一枚を晒す露菊がお吟に躍りかかる。ひらりと錦の着物が舞う。飛び退く暇もなく露菊の両腕がお吟を捉えて抱え込む。
「仕返しでありんす」
 耳元で露菊に囁かれてお吟が体を強ばらせる。抱き竦められたお吟はまともに息をすることも出来ず、されるがままに腰を落としている。露菊の形の良い耳が目と鼻の先にある。首を巡らせば息を吹き掛けられる場所に。唇を寄せられる距離に。お吟の胸は早鐘を打ち、頭の芯が真っ白になり何も考えられなくなる。
 体が熱い。けれどもこの熱さは自分の内から沸き上がるもののためだけではない。目線が腕に落とせば、先程まではそこになかったものが見える。お吟は首を左右に巡らせて我が身を確かめる。
「どうでおざんしょう」
 お吟の体を先程まで露菊が身につけていた着物が覆っている。自分は今、露菊の着物に包まれてしまっている。残り香が鼻をくすぐる。着物が留めた露菊の体の熱の名残をお吟は全身で感じる。熱いわけだよ。お吟は得心した。
「娘らしゅうよう似合っておざんす」
 露菊の左目が細められ、右目が笑みを湛えている。
「こんな綺麗な着物。着たことがないよ」
 困り顔とも笑い顔ともつかない表情でお吟が呟く。
「それにしても」
 羽織った着物の襟元を合わせてみながらお吟が零す。
「少し重いね。これ」
 照れ隠しでも何でもなく、素直な感想を述べてお吟は露菊を見る。子供のような眼差しを向けられた露菊が黙り込む。二人の間を沈黙が流れる。
 静けさを破って露菊が噴きだした。俯き肩を上下に揺らす露菊に釣られてお吟も喉を鳴らす。やがて二人は声を上げて笑い始める。露菊の目から一筋熱いものが零れる。お吟の目にも涙が浮かぶ。二人は手を取り合って額を付き合わせる。付き合わせたまま込み上げる笑いを辺りに響かせる。
 一頻り笑って二人は顔を上げて見つめ合う。
「わっちはこんな着物を脱いだ暮らしをしんすか」
「ああ」
「足袋を履く暮らしをしんすか」
「ああそうさ」
「これからずっとそうやって生きていくのでありんすか」
 次第に涙声になって露菊が言う。
「それがいい。それでいい」
 お吟がその言葉を受けて優しく応える。
 どちらからともなく相手の首の後ろに手を回して身を引き寄せ合う。二人は互いの肩口を流れる涙で濡らしながら、腕の中に息づく相手の体の確かさを感じつつ、いつまでも抱き合い続けた。

 

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