幻蝶
(三)
「なぁにをぼんやりとしとるの」
笑みを含んだ声に、私は三年の歳月から引き戻された。
目を開く。とめどなく溢れる鮮紅色の中に、鈍色の刃が沈む白い肌がぽっかりと浮かんでいる。あぁそうだ、私はとうとう幻蝶に手を下したのだ。指先を濡らす生ぬるい体温にぼんやりと思ったところで、ゆるりと幻蝶の生首が動いた。
私は思わず悲鳴を上げる。そこでやっと、幻蝶の首筋が無傷なことに気がついた。鮮血で彩られてはいる。けれど、傷ついているのは剃刀を握った彼女の手だ。
ゆらりと立ち上がった幻蝶は親指についた血を舐め取り、うっそりと笑った。
「あかんよ? 人を殺したいなら、ちゃあんと最後まで目を開けとらんと」
「……っ、あんた……気づいてたのか……」
「そりゃあ、あんなに殺気まみれやったらねぇ」
幻蝶が落とした剃刀が畳に突き立つ。凍りつく私の肩を押し、のしかかった彼女はうっとりとした笑みを浮かべた。いつもと変わらぬ笑みだ。これまでと同じ。そしてきっと、これからも同じ。
この女は、私の前に立ちはだかる。まともに争うこともなく、なれど絶対的な存在として。
「ど……して……」声を震わせながら、私は薄い生地の着物をぐっと掴んだ。「どうしてよ……どうしてあんたは、いなくなってくれないの……。あんたさえいなければ、あたしは……」
「あはは。ええねぇ、ええねぇ。あんたは相変わらず綺麗に泣いてくれる」私の上で、艶やかな笑みを浮かべた女は胸元に手を当てた。「でも残念。幻蝶は消えへんよ。誰がどう足掻いたってね。蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。それを捉えようとするから苦しゅうなる」
「捉えたいだなんて、」
「本当に、そう思てる?」
無邪気に笑った幻蝶は、整った顔を近づけた。瑞々しい白檀の香りが、喉元を濡らす血と混ざって濃く香る。酩酊しそうな夜闇の中で、幻蝶は紅を引いた唇を耳元に寄せた。
「だって、あんたは――」
囁かれた一言に、私は目を開いて幻蝶の頬を叩いた。
幻蝶は微笑む。白い頬の片側だけがほんのりと桜色に染まる。そして彼女は、呆然と見惚れる私の唇に触れ血色の紅を引いた。
「あぁ本当に、あんたは綺麗で、愚かやわ」
勝ち誇ったように幻蝶が瞳を煌めかせる。視界が滲み、私は耐えきれなくなって目を閉じた。頬を伝う涙が甘いのか苦いのか、判別することすら億劫だった。
そしてそれから十日後の未明に、幻蝶は呆気なく死んだ。
*****
幻蝶は持病持ちだったと、人々は噂した。
彼女があまりにも色白だったのは血の穢れゆえだとか。それを知っていたからこそ、彼女は奔放に振る舞えたのだとか。
「いずれにせよ、よかったわ」
私が手渡した湯呑に口をつけ、楪がほっとしたように呟いた。私は顔を上げぬまま、茶釜の湯をかき混ぜる。今年の春、楪は幻蝶と共に格子太夫になったばかりだった。ならば、十七を過ぎても水揚げ出来ぬ自分が彼女の世話をすることは当然のことだ。
絹の紋織物で出来た打掛けを滑らせ、楪がふんわりと微笑む。
「皆、悪い夢から覚めたようだわ。そりゃあそうよね。幻蝶は間違いなく悪女だったもの。彼女に弱みを握られて、肩身の狭い思いをしていた者もいたようだから」
「そう」
「あなたもそうでしょう? 幻蝶の傍で仕えて二年。到底無茶な難題もふっかけられたって聞いたわ。夜半に湯浴みを要求されたり、冬にしか手に入らぬ野菜をねだられたり」
「それぐらい、大したことじゃないわ。あいつの飲みかけの汁を水で薄めて飲まされたり、あいつに激高した客に、身代わりで殴られたこともあったもの」
「まぁ……なんてこと……」
淡々と告げた事実は、楪にとっては衝撃的だったらしい。しばしの沈黙の後、彼女は不意に膝を寄せた。
ふわりと、楪の暖かな手が私の上に乗せられる。これでは茶を汲めない。乾いた心で思って目を上げれば、かつての友人は痛ましげに目を細める。
「大変な、思いをしたのね」
「……別に、大変だと思ったことなどないわ」
「無理をしなくてもいいのよ。あぁでもまさか、ここまで酷いことになっているなんて」
酷いこと。言葉にしてしまえば呆気ないそれに、私は妙に笑いたい気持ちになった。そうだ、あまりにも酷かった。幻蝶と過ごす時間に良い思い出など何一つ無い。
だというのに、彼女の死は水瓶から覗く黒の如く、私の胸に染みを残したのだった。それは底知れない闇だ。なのに私を惹きつけてやまない。
「――でも、もう大丈夫だわ。今日ね、主様が仰ったの。私が幻蝶に成り代わって、身揚げされておいきなさいと」
楪の言葉に、私の思考はぴたりと止まった。目だけ上げれば、楪はおっとりと微笑む。
「だから、怖い幻蝶に怯える日々はもうおしまいよ。あんたはこれから自由に生きて、」
「お待ち」私はまじまじと楪を見つめた。「馬鹿言っちゃいけない。幻蝶は死んだ。なら、見受けの話は断るのが筋ってもんだ。相手だって、幻蝶の器量を見込んで買おうとしたのだろうし」
「いいえ、客は見栄を買いたかったのよ。それが証拠に、お客は幻蝶に一度も会いに来たことがないそうだわ」
「そんな客、主様がお許しになるはずがない」
「言ったでしょう、これは主様が言い出したことなのよ。私はそれに従うだけ」
「あんたはそれでいいのか」
「えぇ勿論、構わないわ」
だって、ここから出ていけるのですもの。楪は華のような笑みを浮かべた。それを私はしばしの間ぼんやりと見つめ、そっと目を閉じる。
鮮やかな赤が、瞼の裏に散った。からからと、記憶の中の蝶が艶やかに笑う。幻蝶は消えへんよ。誰がどう足掻いたってね。蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。
「分かった」私は静かに瞼を上げた。「あんたが、幻蝶を殺したんだね」
「……え」
楪の顔がこわばった。それが奇妙におかしくて、私は楪の手を強く握って笑む。
「駄目よ、楪。幻蝶を名乗るのならば、こんな時こそ厭味ったらしく笑わなくちゃ」
「待って……なんで、あんた……」
「なんで私が、幻蝶が殺されたって思ったのか? そりゃあ毎日、あの子の汁の残りを食わされていたんだもの。そこに毒が入ってるかどうかなんて分かるに決まってる。そしてこの楼閣に、薬屋の客と付き合いのあった人間は、あんたしかいない」
「っ、そんな……」
「その様子じゃあ、幻蝶を殺したのはあんただけの判断というわけね。その後で、主様を上手く抱き込んだのかしら」私は鼻を鳴らした。「くだらない。実にくだらないわ。こんなことで、アイツが死ぬなんて」
そこまで言ったところで、楪が苦しげに胸を押さえた。細い体がくずおれる。信じられぬと言わんばかりの目で見上げてきた彼女に、私はにこりと微笑んだ。
「なぁに、さして驚くほどのことじゃないわ。ちょっとしたお薬よ。あんたの懇意にしてるお客さんが親切にも譲ってくだすったの。閨での甘えは有効よね。そう思わない?」
楪の目に怯えの色が浮かんだ。そりゃあそうだろう。水揚げ前の女が客と寝ることは許されない。まして、私はそういうことをする人間ではなかった。
けれど、あの女は、違う。
「――わっちを、幻蝶に仕立て上げなさい」楪を抱き寄せ、私は声を落として命じた。「主様にわっちを推薦するの。そうすれば解毒薬をくれてやる」
「……っ、ど、して……そんなにあんたも身請けされたかったの……?」
「身請けなんて断るに決まってるでしょう。笑わせないでよ。仮にも幻蝶を騙ろうと思った人間が、そんな陳腐な発想にしか至れないなんて」
私は冷ややかに目を細めた。
「蝶はただただ、何者にも縛られずに儚き幻を渡り歩くばかり。身請けなんていう些事にとらわれるはずがない。幻蝶とはそうあるべきなのよ。見知らぬ人間が、それを穢すのはいっとう我慢ならないわ」
「おか……しいわ……あんたは幻蝶のことが嫌いなはずでしょ……」
「……そうよ、嫌い。あいつのことなんか、大嫌いだわ。でもね、赤の他人がアイツを騙るのはもっと許せないの」
楪が観念したかのように項垂れた。あぁこれは従うな。そのことを確信し、私は楪の口に乱暴に解毒薬を入れて部屋を後にする。
障子を開け、外へと踏み出した。格子越しの残照が廊下を照らす。あの女の笑い声が聞こえた気がした。アンタもとうとう堕ちてきたんやねぇと。
「……くそくらえ」
あんたのためなら、私は結局、どこまでも追いかけてしまうんだ。たとえそれが夢幻であろうとも。低く吐き捨て、私は着物を整えるために部屋へと足を向ける。
視界の端で、ひらりと蝶が舞った。
<了>