(二)
寝返りを打って露菊は大きく息を吐く。左半身を下にして横たわると少し楽な気がするのだが、胃の辺りに差し込む痛みは消える様子はない。
これもいつものこと、しばらく温和しく横になって時薬に身を委ねればやがて痛みは引く。そう思いはするものの、今この時に容赦なく胃の腑をねじ切らんとする耐え難い痛みに何度も眉間の皺が深くなる。
癪持ちの女郎は多い。
昼に夜に客の相手をし、躰を使い続ける日々。客と同衾する夜は当然ろくに眠ることも出来ず、明け六ツの鐘を合図に後朝の別れと客を送り返してようやく一眠り出来たとしても、一刻半も眠れればまだいい方だ。
休みの日として定まっているのは元旦と盆前の七月十六日の二日程度。月のものが来ても月役七日とは名ばかりで、七日続きの休みなど許されるわけもなく三日と開けずに見世に出ねばならない。
そんな暮らしが長く続けば体を壊し、宿痾に悩まされるようになるのも道理というものである。
露菊とて例外ではなく、癪に悩まされるようになってもう四、五年にもなろうか。しつこい客、無粋な客、ただただ精の強い客の相手が続けば決まって胃の腑が暴れ出す。長い付き合いとはいえ、この痛みには未だに慣れはしない。
「花魁。まだ痛みんすかえ」
膝を折った新造の綾菊が露菊の耳元に顔を近づけ、心底不安げな声で低く囁く。露菊は努めて穏やかな顔を作っては見せるが、束の間消えた眉間の皺は直にまた戻ってきてしまう。
「背中を摩りんしょう」
綾菊は半身で横たわる露菊の背後へと回り、柔らかな掌を露菊の背にゆっくりと這わせる。伝わってくる手の温かさとともに、綾菊の姉を思い遣る気持ちを感じつつ、目を細めて露菊は深く息を吐く。
「ああ。心地よい。随分とようなった」
露菊は軽く目を閉じて呟く。半ば綾菊に対しての労いの言葉なのだが、そう声に出してみると本当に痛みが和らいでいく気がする。
軽く目蓋を開いて視線を少し遠くにやると、次の間で二つ寄り添う小さな背中が目に入る。頭を寄せて丸まった背中は時折すんすんと鼻を啜りしゃくり上げている。禿達がこちらを向いていないのは痛みを堪えている自分の姿を見たくないからなのだろう。
二人の禿の間に空いた僅かな隙間から火鉢が覗いている。時折ひそひそと交わされる言葉に混じって炭の爆ぜる音がする。
「やけろ。やけろ」
「かつら。もうよかろか」
「なつめ。もうすこし。もうすこしじゃ」
「はよう。ねえさんにあげんと」
「はようやけろ」
なつめもかつらも時折声を震わせて真剣に火鉢の中に声を掛ける。露菊にはその様子が何とも微笑ましく愛おしいものに感じられる。
「もうよかろ」
「うん。よかろ」
「ぬのをだせ」
「これここに」
二人は綿布を出して畳の上に敷くと、辿々しい手付きで火箸を使い、火鉢の中から石を拾い上げた。
「火傷をするでないぞ」
露菊が言ったそばから石が火箸から外れて畳に転がる。目を見開き、あ、と一声発する間もなく露菊の背後から起こった衣擦れの音が進み行き、禿たちの元へと急ぐ。狼狽える禿たちを余所に綾菊は身を屈めて畳の上に広げられた綿布を手にする。数回畳んで布越しに石を掴むと、手際よく包んで立ち尽くす禿たちの前に差し出す。
「なつめ。かつら。さあ。姉さんにあげなんし」
膝立ちで見上げるようにして二人の目を順に見つめる綾菊の声に禿たちは漸く我に返り、無言で大きく頷く。姉新造から出来上がった温石を受け取り、今度こそ落とすまいと手にしたものをじっと見つめながら覚束ない足取りで歩み寄る幼子たちに、転ばないで、と露菊は胸の内で呼び掛ける。
「ねえさん。これ」
「これでおなかをあたためて」
目の前でぺたりと座り込んだ禿たちが目を潤ませて温石を差し出す。露菊は両の手で包みこむように受け取り懐に入れると、二人に向かって笑みを浮かべてみせる。
「大事ない。これで直にようなる」
涙を零すまいと口を引き結んだ幼い顔が胸に飛び込んでくる。露菊はその小さな背中に腕を回して優しく包みこんだ。
ああ。温かい。姉を思って温めてくれた温石が温かい。そればかりではない。痛みに顔を顰める姉に少しでも楽になって貰いたいと願うこの幼気な子らの気持ちが温かい。本当に温かい。胃の腑の辺りも。この胸までもが。
「さあ。こなさん達は下へお行き。そろそろ朝のお勤めの刻限じゃ」
そう言われて禿たちは顔を上げるが、より一層強い力で露菊の胸元にむしゃぶりついてくる。
「これ。止めぬか」
窘めても幼子たちはいやいやと被りを振るばかりで身を離そうとしない。愛おしさについ禿たちの背に回した腕に力が入りそうになるが、露菊は己を叱責して二人の肩に手を掛けてゆっくりと押し上げる。情に流され甘やかしてはならない。この子たちはここで生きるより他はないのだから、姉としてここでの身の処し方を教えてやらねばならない。そう断じて露菊は姉女郎の顔で二人を諭す。
「行かねばならぬ。行かねばまた折檻だぞえ。痛いのは嫌じゃろう。聞き分けよ」
順に二人の目を見て静かに露菊は言う。瞬きを重ねて俯くばかりの禿達だったが、やがてこくりと頷いて徐に立ち上がる。そう。それでいい。なつめ。かつら。これでお前たちはまた遣手に罵られたり撲たれたりせずに済む。
露菊はそっと綾菊に目配せをする。綾菊は心得たとばかりに軽く頷き、二人の手を取って廊下へと誘う。なつめもかつらも後ろ髪引かれると見えて何度も振り返るが、その都度綾菊は手を引いて先に行くよう促す。
「早う行きやれ」
そしてお勤めを済ませて、朝餉を頂いておくれ。ほんの一時でも空腹を満たしておくれ。露菊は去って行く小さな背中にそう念じた。
部屋に一人残され夜具の上で寝返りを打った露菊の耳に、ちとちとちとち、とも、りたりたりたり、とも聞こえる囀りが届く。中庭の木の上で小鳥が鳴いているのだろう。何という名前の鳥だろう。生憎と鳥の名前には詳しくはない。流石に烏や雀、鳩や鴎、鶯などならば姿形や鳴き声の区別はつく。けれどもこの声からは姿形を思い浮かべることが出来ない。
りとりとりとり。ちたちたちたち。
そんな聞きなしをしている間に、露菊はいつの間にか胃がすっかり軽くなっているのを感じた。禿たちが用意してくれた温石が効いたのだろう。露菊は懐に手を入れて布包みの石を取り出して枕元に置くと、ゆっくりと立ち上がって緋縮緬の襟元と裾を整え部屋を出た。
妓楼の二階は昨夜の喧噪とは打って変わってひっそりと静まりかえっている。露菊に付くなつめやかつらばかりではなく、禿たちはみな階下に行ってしまったと見える。今頃は振袖新造たちも揃って金精様を祀った神棚の前に畏まっているだろう。恐らくは二階に残されているのは自分も含めて部屋持ちや座敷持ちの格上女郎のみ。耳を澄ませば一時の安らぎを求めて惰眠を貪る寝息が聞こえて来そうである。
露菊は廊下をそぞろ歩いた。目線を上に向ければ天上に等間隔に並ぶ八間が見える。夜通し灯され人々を見下ろしていた丈の低い方形は早々に火を落とされ、どれもそっぽを向いたように押し黙っている。足元はと見れば、そこここに転がる丸まった御簾紙が半乾きのその身から栗の花の匂いを漂わせ、男女の痴態の名残を留めている。
押し並べてこともなく繰り返される日々の営み。代わり栄えのない夜が過ぎ、また代わり栄えのない一日が始まる。退屈などする暇はないが、何か言葉にならないものが心と身体の中に澱のように溜まり行くばかりで、次第次第に倦み疲れていく。
それでも生きていかねばならない。年季が明けるのはまだ先のこと、妓楼からの借財はまだ返し終わらない。自ら望んで郭に入ったのだから勤め上げねばならない。そうでなければ死なせてしまった人たちに顔向けなど出来ない。露菊は脳裏に浮かんだ海に散っていった人たちの面影を一人一人胸に刻み直した。
下へと続く大階段に差し掛かかると、露菊はそっと階下の様子を伺った。大階段正面のお内所にいつも居座る楼主の姿はなく、朝のお勤めはもう終わったものと見えて、奥に祀られた金精様の神棚前に人の姿は見受けられない。
――廊下で騒ぎますまい。つまみ食いいたしますまい。寝小便いたしますまい。お客人を大切にいたしましょう。悪いことをいたしますまい。
神棚に上げられた灯明をただぼんやりと眺める露菊の耳に、年端もいかない娘たちの唱和が届く。大階段裏側の板の間に朝餉を前に居並んだ禿や新造たちの姿が目に浮かぶ。
「火の用心、火の用心。大切は、大切は。上々様方へ御奉公、御奉公。お客人様大切は、大切は。わいらが親を孝行にして、やったかわりの奉公だぞ。よろしい。御供をいただけ」
そう宣う遣手の声に娘たちはまた声を揃えて、おありがとう存じ奉ります、と唱和する。ああ。なつめもかつらも綾菊もまたこうして一日命を繋ぐことが出来た。無事に朝餉を取ることが出来た。露菊は胸を撫で下ろす。
十四で自ら望んで郭に来た露菊は姉に恵まれなかった。なつめやかつらのように禿として幼いうちから仕込まれることはなく、綾菊のように新造として手解きを受ける刻は長くはなかった。郭に来てほんの三年ほどで投げられるように突出しとなった露菊は、足掻きに足掻いて研鑽を積んだた。形ばかりの姉女郎には日々疎まれ、遣手に散々殴られ何度も行灯部屋へ放り込まれた。夜更けに忍んで宴席の残り物を漁り飢えを凌いだ。
それでも必死に手練手管をものにして、上客も沢山付くようになり、この妓楼揚羽屋の稼ぎ頭へとのし上がった。細見に山印とともに名が載せられ、呼出しの地位を得て皆から花魁と呼ばれるようになった。出来ることならあの子たちには自分のような苦労はさせたくない。自分の目の届く限りこの妓楼で生き抜く術を教え、諭し、一人前になるよう支えてやりたい。甘やかすことなく。見放すことをせず。
露菊は格子の間から表通りを見下ろした。
また一日生きよう。生きて我が身に背負った罪を償い続けよう。自分の行いのために死んでいった人たちのために。殺めてしまった人たちを決して忘れることなく。そう強く念じた露菊の耳に、またどこからか小鳥の囀りが聞こえた。
「ちとちとちとち。りたりたりたり」
小鳥の鳴き真似を口ずさんでみる。
格子の隙間から見回してみたが、小鳥の姿は一向に見えることはなかった。
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