(三)
長屋のある揚屋町の木戸を潜り、鬢盥を提げてお吟は仲ノ町へと足を進める。まだ日の高い今時分の郭は登楼する客というよりは、他国から江戸へと上ってきて一つ話の種にと訪れた旅人や、女郎相手に商いをする呉服屋、小間物屋の荷を背負った姿が行き交う程度で、夜通し灯される灯りに誘われた者たちの見せる賑わいとはまた別の顔を見せている。
これが弥生の頃ならば、昼間だろうがもっと繁華なのだが。お吟は通りの両側に居並ぶ引手茶屋を見回しながら思う。
今はもうすっかり跡形もなく片付けられてしまっているが、二月から三月末辺りまでは大通りの真ん中、大門口から水道尻に至るまで桜の木々が並べられる。夜桜見物も多くの人出があるのだが、昼間でも見事な桜並木を愛でようと近郷近在から多数の女達が繰り出してくる。
郭を訪れるのは何も肉欲の煩悩に塗れた男衆ばかりではない。花の時期には花を、七月の玉菊灯籠や八月の俄といった行事の際には行事を、それぞれを楽しむべく大門を潜る女は決して少なくはない。例え女であっても郭を訪れることを咎める者などいないのだ。
とはいえ男のように四六時中出入り自由という訳ではない。入るは容易いが、大門より外へ出るには四郎兵衛会所で予め切手を手にする必要がある。足抜けしようとする女郎ではなく、郭の外から所用で来たことの証となる切手がなければ、例え大店の娘といった在所素性の確かな者であっても郭の外へ出ることは許されない。物見遊山と浮かれはしゃいでついうっかりなどすれば、留め置かれて難儀をすることになる。
流石に今日はそんなうっかり娘はいまい。お吟はかつて見たことのある大門での悶着を思い出して口の端に苦笑いを浮かべた。
五月半ばの今は通りは花菖蒲に彩られている。水路に見立てた溝を整え、川縁に菖蒲の茂る景色に見えるように拵えてある。聞けば菖蒲の花は一日しか保たず、植木職人が毎日一本一本植え替えているのだという。一斉に花開くよう時期が整えられた桜の木といい、日々花の様子を見て手植えされる花菖蒲といい、毎年のことながら、植木職人の骨折りは相当なものだ。本当に恐れ入る。
「おっとっとっと」
徒然に物思いに耽っていたお吟は、自分の目指す場所を行き過ぎてしまったことに気付き蹈鞴を踏んだ。郭の外から来たうっかり娘のことを考えていて、つい自分がうっかりしてしまうとは。我ながら世話の焼けることだ。頭を掻いてお吟は踵を返し道を戻る。
「ごめんよ」
「あら。お吟ちゃん」
お吟が引手茶屋上総屋の暖簾を潜って中に声を掛けると、襷掛けの縞の着物が振り返った。玄人なりに天神に結った髪の鬢から白い耳朶が覗く。この耳は蜻蛉を打った白狐のようだ。ああ。この人は上総屋の女将さんだ。お吟はそう合点してこちらへと歩む女に問うた。
「どんな塩梅だい」
「もうばたばたさ。まぁ毎年のことだから慣れちゃいるけどね」
そう言って女将は爪の間が赤く色づいた両手を見せた。
「ああ。これはまた。随分と酸っぱそうな爪だね」
「ここんとこ朝から晩まで仕込み続きだからね。手を洗う間もありゃしないから、もうこのまま染まっちまうんじゃないかね」
女将の口から鉄漿に染まった黒い歯が零れる。
「そうだねぇ。味も浸み込んでしゃぶったら飯三杯は食えるだろうさ」
「いやだよぅ。この子ったら」
お吟の戯れ事に女将が掌をひらつかせて快活に笑う。お吟も一緒になって白い歯を見せる。土間を横切り勝手知ったる茶屋の裏手へと回れば、女中も下男も総出で大笊や瓶を前にして手を動かす姿が目に入る。辺りは一面梅酢の臭いに満ちていた。
茶屋の奉公人に混じって、背筋がやたらぴんと伸びた女衆が手だけではなく口も達者に動かしている。
「それでその新造が言うんだよ。わっちは確かに撥を置きんしたってさ。ほら。連中が張見せで清掻弾く時って撥を一本順繰りに使うだろ?」
「嫌がらせしてるんじゃないのかい?」
「撥に足が生えてどっかに歩いて行くわけないじゃないか。そりゃ隠したかなんかだろうね」
「嫌だねぇ。女郎同士で足の引っ張り合いなんざ」
「ちょいとあんた。取った種をこっちに飛ばすんじゃないよ」
「避けりゃいいじゃないか」
「あたしの方にも紫蘇を回してくれないかい?」
「ほら口よか手を動かしなよ手を。日が暮れっちまうよ」
「はいはい」
「何だいその言い種は。はいは一回にしな。お里が知れるよ」
「おお恐や恐や」
姦しく囀るのは上総屋が懇意にしている仲之町芸者たちだ。
「やってるね」
お吟が声を掛けると芸者衆は一斉に顔を上げお吟の方を顧みる。
「お。来たねお吟坊」
「坊はやめとくれよ姐さん」
お吟は口をへの字に結んでみせる。芸者達は声を合わせて笑い出す。
「今年もいい甘露梅が出来そうじゃないか」
「当たり前さ。何たってあたしらが助てるんだからね」
「仲之町芸者の綺麗所がいいのに仕立ててみせるさ」
爪の先を紫蘇の汁で赤く染めた芸者衆の口元から白い歯が零れる。お吟は手に提げていた鬢盥を濡れ縁の隅に置くと、懐から襷を出して掛け始めた。
「どれ。あたしも一丁やるか」
「そりゃ鬼に金棒だ」
「お吟坊の韋駄天の手業が加わればあっという間に仕舞だね」
芸者衆が左右に互いの間を詰めて場所を空けると、襷を掛け終わったお吟がその間に入る。皆のように暫くは爪が赤くなるな。ちらりと指先を見たお吟は濡れ布巾で丁寧に両手を拭うと、まずは梅酢から引き上げられた梅の実に手を伸ばした。
包丁で梅の実に切れ目を入れて身を崩さないよう種を取り除く。見る間にお吟の前に置かれた笊に梅の小山が築かれていく。一通り種を取り終わると、今度はこんもりと盛られた紫蘇の葉を手に取る。種を取った梅の実に一枚一枚丁寧に巻いていくと、梅酢に溶け出した紫蘇の赤い色がお吟の指先に広がっていく。
「よし。じゃぁこれ、漬け込みに回しとくれ」
お吟は茶屋の女中に紫蘇巻きの梅を盛った笊を渡すと、また次の一山に手を付け始める。運ばれていった梅は瓶を前にした別の女中の手に渡り、砂糖と共に漬け込まれていく。ちゃんと口に入るようになるのは半年ほど先か。思うお吟の口中に唾が湧く。
砂糖漬けにされた紫蘇巻きの梅は、年始の頃には名物の甘露梅となって茶屋の上客や世話になっている妓楼への進物となるのだが、どの引手茶屋もこの時期は仕込みに忙しい。茶屋の男手女手だけではなく、贔屓にされている仲之町芸者たちも加わって朝から晩まで作業が続く。お吟も日頃髪を結わせてくれている芸者衆や、懇意にしてくれている上総屋への恩返しとばかりに、甘露梅作りを手伝うのが毎年の常だった。
たっぷりとあった梅の実も紫蘇も夕七ツ半の頃にはすっかりと瓶の中に収まった。この日の仕込みは何とか片付いたが、明日になればまた同じ作業の繰り返し。梅干しと違って土用干しの手間はしないにしても、流石に量が量だけにこなして行くには骨が折れる。けれどもこの忙しさは嫌いじゃない。すっかり赤く染まった両手の爪の間を見ながらお吟は思う。
郭での主役はあくまで女郎、芸者衆はいわば添え物だ。同じ客の座敷に出ても花魁などに比べれば稼ぎは雲泥の差、嫌な客に当たって同じように不愉快な思いに耐えねばならないしても、主役と脇役の扱われ方には歴然とした差がある。そんな仲之町芸者達がここでは忙しなくとも好き勝手を言い合い、肩の力を抜いて己を繕わずにいる。噂話に悪口悪態、そんなもので日々の鬱憤が晴れるのならばそれに越したことはない。姦しさの中に身を置きながら、何やらお吟は自分も安まる心地がしていた。
「お手間さまだったねぇ。さぁさ。これでも上がっとくれ。井戸から汲み立てだから冷たいよ」
女中が湯飲みの並んだ盆を掲げて来て、一つ一つ手渡しながら座敷を回る。
「何だい。お冷やかい? しけてるねぇ」
「お茶の一つも出してくれりゃいいのにさ」
「同じお冷やなら般若湯なら嬉しいんだけどねぇ」
芸者衆は湯飲みの中を覗き、口さがなくたらたらと文句を口にしていたが、中身を口に含んで一斉に黙り込む。さて何事かとお吟も口を付けてみれば、これは文句も引っ込むものだと得心がいった。
甘い。水が甘い。
乾ききった喉に水が甘露などと言うが、そんな例え話ではなく湯飲みの中の水は本当に甘かった。甘く冷たい水が疲れた体全体に染み渡るようだ。
「漬け込み方の所に行ってね。ちょっと砂糖を頂いてきたってわけさ」
水を運んで来た女中が声を潜めて言う。縦に伸びた人差し指が薄い唇に重なる。
「女将さんには内緒だよ」
唇の間からぺろりと桜色の舌が出る。芸者衆は一斉に首を竦めて、これまたぺろりと舌を出したかと思うと、湯飲みに向き直って味わうように一口一口と水を飲んだ。
「ああ。美味いねぇ」
「下り酒より上等なお冷やだよ」
「流石は上総屋、井戸が違うね井戸が」
「白玉入ってたらなおいいねぇ」
その掌の返しようにお吟は堪らず吹き出した。首を巡らせて座敷を見回せば、表座敷へと離れ行く女将の背中が目に入る。女将の背中は何も知らないようにも、事と次第を承知した上で知らん顔をしているようにも見えた。女中が砂糖を少々ちょろまかして芸者衆に砂糖水を振る舞ったと知ったとしても、女将は何も言うまい。そんな了見の狭い人ではないことはお吟も、他ならぬ芸者達もよく心得ている。
「さて。姐さん方。あまりのんびりとはしてられないんじゃないのかい?」
砂糖水を一気に飲み干し、舌に甘い余韻を覚えつつお吟が仲之町芸者達に促す。夜見世の開く暮六ツにはまだ間があるが、身支度を調えて茶屋なり妓楼の張見世なりに赴くとなればあまり悠長にはしていられない。
「ほいきた」
「さ。支度支度」
「ご馳走さん」
「ここに置いとくよ」
芸者衆は各々動き出す。
「お吟坊。一つ頼めるかい?」
「ん? 結い直すのかい?」
「ああ。今夜は一つ気合いを入れ直しときたいんだよ。きりりとしゃん、ってね」
「あいよ。どんと御座れだ」
お吟は、ぱん、と胸を平手で打って請け負うと、鬢盥へと歩み寄る。
「悪いけどここ、使わせて貰うよ」
上総屋の衆に一言断りを入れると、お吟は鬢盥を手に座敷の真ん中に陣取った。
「よ。待ってました韋駄天の」
芝居小屋の大向こうから掛かる声のように芸者がはやし立てる。
「それじゃあたしも頼もうかね」
「じゃあたしも」
「あたしも頼まなくっちゃぁ。ぱりっとしとくれ」
「ああ。いいよ。一人二人は面倒だ。一気に纏めて掛かってきな」
お吟も荒事芝居の立役のような台詞を口にしてにんまり笑って応じる。お勤めに向かうべく座敷を立ち去る者もいる中、我も我もと申し出て結局五人の芸者がその場に残った。
相手にする人数と結髪の手順を勘案してお吟は推し量る。四半刻で二人、ならば半刻で四人。暮六ツには各々が三味や着物の支度を調えお座敷の控え場所や張見世にいなければならない。恐らく残された時間は一刻半。五人いけるか。いや。いける。お吟は断じて身支度を進める。
後ろ髪を包んだ鳶色の布を外して、垂れた狸の尻尾を折り畳むと、解けないように根元をしっかりと布で縛り直す。三毛猫の短い尻尾が出来上がると、鬢盥の引き出しを開けて手甲と鋏を取り出す。
「姐さん方。櫛や簪や飾り布は外しといておくれよ」
手甲の背に縫い付けられた皮の鞘に鋏が収まる。芸者衆はお吟を要に、開いた扇のように広がり背を向けて座る。お吟が鬢盥の別の引き出しから結櫛を取り出す。細長い柄の先に箒のように歯の付いた毛筋立。同じように柄は細長いが長い歯が全体の中程まで付いている鬢出し。梳し櫛ではあるが、両端の一方が狭く、もう一方が垂直に近い幅広に作られた縦四つに割った茄子の切り口のような形の鬢掻き。様々に使い分ける櫛を三毛猫の尻尾の形に纏めた髪の根元に差していく。
息を整えてお吟が膝立ちとなって腿をぽんと打つ。
「やれさていっかな」
その音を合図に仲之町芸者が声を揃えて、さあどうだ、とお吟に囃す。
「やっちゃ仕て来い」
お吟が準備万端と張りのある声で応じる。お吟は並んだ芸者衆の右端の髪へと取り付き梳き櫛を滑らせる。その喉から朗々とした唄が迸る
仕て来いな やっちゃ仕て来い今夜の御供
ちっと後れて出かけたが足の早いに
我が折れ田圃は近道
見はぐるまいぞよ 合点だ
時折芸者衆が、よ、ほ、と相の手を挟む。全ての芸者の髪を梳かし終わってお吟は今度は反対向きに進みながら一人一人の前髪、鬢、髱、根を筋分けして取った根を元結で縛り始める。
「振って……ん……消しゃるな台提灯に、ん……御定紋付……でっかり……ん……と、ふくれた紺の」
お吟は取った根に巻き付けた元結の右端に指を巻き付け反対の端を歯で銜えて引っ張り締め込んでいく。歯締めをする度にお吟の声が短く、ん、と詰まり、長唄の文句がぷつぷつと途切れる。
唄いながらお吟は軽杉を履いた立て膝の脚を伸ばして滑らせ、体の重みを移しながら芸者衆の後ろを順繰りに巡っていく。一通りの頭の根を作り終えると、お吟は手先を繰って鬢を張り出し作って毛先を根に縛り付ける。指先が鬢の中に滑り込み張りが整えられていく。一人に一つの手順をし終わると、隣に移ってまた同じ手順を繰り替えす。一人一人に終いまで手を掛けることなく、列を行き来しながら同じ手業を施していく。塩梅のいい力加減と確かな手技が結いの途中で止められた髪を崩すことなく保ち支えている。お吟にしか出来ない技だった。舞い踊るようにお吟が行き過ぎた後には同じ形の頭が残された。
長唄は続く。主人の侍に付き従って吉原に繰り出した奴が主の伊達姿を語って自慢する。その文句の間にお吟の手が踊り次々と芸者達の前髪が形作られる。奴が浮かれてさも自分も登楼しているかのように語り出す。お吟が一つ一つ整えた前髪を根に元結で縛って歯締めを繰り返す。
「名調子」
「やれこの」
芸者衆が口々にお吟に囃し立てる。お吟の勢いは止まらない。やがて奴が主を見失い慌てうろたえて後を追って唄が終わると、お吟は別の長唄を口ずさみながら手を動かし続けた。軽杉履きの脚が蟹の横這いのように動き、お吟が右へ右へ、端まで行って折り返して左へ左へと渡り行く。
廓の三浦女郎様
ちえこちえ 袖をそっそと引かば
おお靡きやれ かんまへて
よい よい女郎の顔をしやるな
ちえこちえ 袖をそっそと引かば かんまへて
よい よい女郎の顔をしやるな ちえこちえ
いつしか芸者達も声を揃えて唄い出す。三味の音のような手拍子が、鼓のような膝を打つ音が飛び交う。
二人連立ち語ろもの 廓々は我家なれば
遣手禿を一所に連立ち 急ぐべし
遊び嬉しき馴染へ通ふ 恋に焦がれて
ちゃちゃと ちゃちゃと ちゃっとゆこやれ
お吟がたっぷりと長唄二曲をを唄う間に全ての髷が整えられ、手甲の鞘から抜かれた握り鋏が余分となった元結の端を切り飛ばしていく。唄い終わってお吟は最後の仕上げとばかりに一人一人丁寧に飾り布を巻き留め簪を挿す。
「仕舞だ」
お吟が一声上げて手を止めと、そこには天神に結い上がった頭がずらりと並んでいだ。
「ああやれやれ」
「やっぱりお吟ちゃんは速いね。一刻位かい」
「いやもっと速かったさ」
「流石は韋駄天の手筋」
「見事だね」
「でもこの見掛けは韋駄天さまって言うよりも、どうひっくり返しても七つ道具背負った弁慶だけどね」
芸者達が姦しく口々に言う。
「おいおい。それはまた随分と厳ついね。あたしはこう見えて初な娘っこだよ」
お吟が髪の後ろに挿した櫛を一本抜きながら苦笑いをする。弾かれるように芸者達が笑い声を上げる。
「さ。姉さん方。油売ってないでお勤めだよお勤め」
お吟が手を叩いて皆に促す。芸者達は口々に礼を言って座敷を後にする。
「お代はいつものように付けとくからね」
その背中に声を掛けてお吟は身につけていた結髪の道具を外して片付ける。駆け出しの頃は無駄に手に力が入りすぎて櫛を痛めてしまったこともあったが、流石に今はそんなことはない。今日もどれ一つとして歯も欠けていないし柄も折れていない。ああ。そろそろ櫛を水油で洗ってやらねば。手入れさえ怠らなければ道具は長く保ってこのあたしの活計を支えてくれる。お吟は道具の収まった鬢盥に軽く手を合わせた後に元通りに自分の髪を整え再び狸の尻尾にしてぶら下げると、畳の上に残った元結の切れ端を拾い集め始めた。
「お吟ちゃん。ちょっとお吟ちゃん」
お吟の名を呼び座敷に飛び込んで来たのは上総屋の女将だった。
「お吟ちゃん。大変なんだよ。ちょっと急いで来とくれ」
「どうしたんだい。女将さん」
「大変なことになったんだよ。お吟ちゃん。あんたに会いたいって人がいるんだよ」
「あたしに?」
首を傾げるお吟の手を取り女将が引っ張る。
「ちょっ、ちょっとちょっと。まだ片付けが掃除が」
「いいよそんなの。あたしらが後でやっとくから。急いどくれよ」
お吟は慌てて鬢盥の取っ手を掴む。女将の手で引っ張り上げられたお吟の体が前のめりになる。蹈鞴を踏んで倒れる寸前で何とか踏みとどまったお吟は、女将に引かれるまま座敷を出て廊下を進む。
「一体全体どうしたんだい?」
道すがらお吟は女将に尋ねる。
「それがね、大変なんだよ」
「だから何が大変なんだい?」
「もうほんとに非道いことなんだよ。ああ腹立たしいったらありゃしない」
女将は荒々しく鼻から息を吹き出すばかりでお吟は一向に話の要領が得られない。女将は相当な腹立ち憤りの様子だが、この女将をここまで怒らせることとは何なのだろう。お吟は頭を巡らせてみるが一向に思い当たらない。そうこうするうちに上総屋の表玄関へと差し掛かる。
「お吟ちゃん。このお人だよ」
ぐいと突き出された先には一人の男が立っていた。蝶の紋が入った法被を纏っている。
「お吟さん、ですかい?」
男が切羽詰まったような声で問う。
「ああ。そうだけど」
いつもの癖で耳に目が行く。七輪の上で炙られて反っくり返ったあたりめのような耳だ。この耳に見覚えはない。誰だろう。疑問に思うお吟に男が告げる。
「あっしは角町の揚羽屋の若い者、捨三と申しやす」
捨三と名乗った男は頭を下げる。
「折り入ってお願いしたいことがございやす。申し訳ないが、あっしと一緒に来ては貰えやせんか。是非とも助ていただきたいんでさ」
「ちょっと待っとくれよ」
お吟が矢継ぎ早な捨三の言葉を遮る。
「揚羽屋さんって言ったら妓楼だよね。その揚羽屋さんがあたしに助てくれって。どういうことなんだい?」
「説明してる間も惜しいんでさ。お願ぇしやす。さ。さ」
「いやいや。訳も分からず来てくれって言われても行けやしないよ。一体全体どういう事情なんだい?」
お吟は眉間に皺を寄せる。機嫌を損ねたと見たのか捨三が勢いを失う。
「こいつは……面目ないお吟さん。話しやす」
捨三は済まなそうに再度お吟に頭を下げて口を開く。
「うちの花魁が一人、客に乱暴をされたんでさ。そのお客、何度も何度も足を運んでるのに花魁に冷たくあしらわれたって腹を立てやして。いきなり鋏取り出して花魁の元結全部切り飛ばしてしまったんでさ」
「ね。お吟ちゃん。非道い話だろ?」
女将が口を挟む。お吟は眉根を寄せた。
「それで。捨三さんと言ったね。まさかあたしにその花魁の髪を結えと」
「さいでさ。お吟さんは韋駄天の手筋と聞きやした。夜見世までもう間がありやせん。どうか。助ておくんなせえやし」
「いやいやいや。そいつは出来ないよ」
お吟は両の掌を開いて捨三に向けて振る。
「あんたも妓楼の人間なら知っていなさるだろ? 妓楼に出入りする髪結いは決まってる。あたしは揚羽屋さんの馴染みじゃないんだ。他人様の島に乗り込んで髪なんか結えないよ仁義に背いちまう」
「そこを何とか」
「いや出来ないってば。そんなことしたらあたしは縄張り荒らしってことになって郭で商売出来なくなっちまうよ。なぁ捨三さん。悪いけどさ。あんたんとこの髪結いに頼んでどくれよ」
「それが……そいつが無理な話なんで……」
捨三が項垂れる。
「うちの馴染みの髪結いを呼びに大急ぎで走ったんですが、何でも今日は祝い事があったって話で。明るいうちからしこたま呑んじまったって、それはそれはもうへべれけで」
何とまあ。お吟の口がぽかんと開いてまた閉じた。
「髪結い同士の仕来りは重々承知しておりやす。そのお人も本当ならば飛んで行きたいが、酔っ払ってて手元が狂うといけない、誰か代わりがいたらその人に頼んで欲しいと、そう言ってなすって」
捨三が両膝に手を置いて深々と身を折る。
「どうか。どうかこの通り。商売じゃねぇ人助けだと思って。花魁を。花魁を助けてやっておくんなせぇ。これこの通り」
んん、と唸ってお吟は顔を顰めて首を傾ける。事情は分かる。揚羽屋馴染みの髪結いも他に頼んでくれて構わないと言っているらしい。ならば出向いても差し支えなどないのかも知れないが。でも。しかし。迷うお吟の背に何かが勢いよく当たる。ぱん、と派手な音が辺りに響き渡る。
「いっつっ」
顰めていた顔を更に皺だらけにしてお吟が声を上げる。
「行っておあげよっ。お吟ちゃんっ」
上総屋の女将が大声を上げる。さては背中を勢いよく叩いたのは女将さんの手だったか。お吟は目を白黒させる。
「人助けだよお吟ちゃん。ここで行かなきゃ名が廃るってもんだよ。あたしからも頼むよ」
お吟は深く息をついた。女将さんにも言われちゃ致し方ないか。お吟は流されてしまう自分を軽く呪った。
「分かった。分かったからもう撲たないでおくれよ頼むから」
女将に泣きを入れてお吟は捨三に向き直る。
「承知したよ。さ。案内しとくれ」
「恩に着るぜお吟さん。さ。急いでおくんなさい」
急かされるままお吟は履き物を履き、表へ飛び出して行った捨三の後を追う。その背中を女将が両手で勢いよく推す。蹈鞴を踏んだお吟が転ばぬように踏ん張る。
「さ。行っといで。韋駄天の呼び名に恥じないように飛んでっとくれ」
「あいよぉお」
お吟は少し気の抜けた返事をしつつ、一日に二度も転がされそうになった女将に勘弁してくれと胸の内で呟きながら、角町の方へと取り急ぎ足を向けた。