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(四)

「ええと。ごめんよ……」
 怖ず怖ずとお吟が部屋に入ると、娘が一人、子供が二人、踞って身を重ねていた。二人の子供は向き合って、なつめ、かつら、と互いの名前なのだろう、呼び合って向かい合わせでしゃくり上げている。その背中を脇から宥めるように両腕で抱え、娘もまたさめざめと泣いている。その様子にお吟は何ともばつが悪く、どうしたものかと逡巡していたが、努めて穏やかに口を開いた。
「ああと。あたしは髪結いなんだが」
 怯えているのか泣きじゃくる子供らが顔を上げる。潤んだ右目とそれとは別の涙に濡れた右目がこちらを見る。常日頃の習わしから耳に目が行く。白い子犬と黒い子猫が丸まって寝息を立てているような耳だ。愛くるしい耳だな。思わず目を細めるお吟に子らを抱えていた振袖が声を発する。
「髪結いどんでありんすか」
「ええと。花魁はどちらに」
 お吟の問いに、これまた愛らしい滑らかな肌に朝露の滑る小茄子のような耳が応える。
「そちらの奥でござんす」
 娘が掌で差す部屋が花魁の居室なのだろう。お吟は頷いてそちらに歩みを進めた。
「花魁。いいかな」
 一声掛けて部屋へと入れば、三枚重ねに引き延べた夜具の上で、すっかりと結い髪を解かれて俯くだけの女が佇んでいた。辺りには四方八方に櫛や簪が投げ散らかされている。花魁に乱暴を働いた客が、花魁の頭から引き抜き投げ出したものなのだろう。
「捨三さんにね。頼まれて来たんだ」
 花魁はお吟の言葉に聞き入る風で首を微かに傾げていたが、やがて一つ頷いて疲れ切ったように口を開いた。
「急なことで髪結いどんには手間を掛けんす」
「うん。まぁ。あれだけ頭を下げられるとね。断れなくってさ」
「では。頼みんす」
 花魁はゆっくりと立ち上がり、前屈みになって夜具の端に手を掛けた。畳んでどかそうというのならばその必要などない。変に畏まらず夜具の上に座って少しでも寛げるのならばそれに越したことはない。
「ああ。いや。そのまま座っててくれていいんだ」
 そう制されて花魁の顔がお吟に向き直る。笹紅を引いた唇が何事か言いたそうに軽く開き、切れ長の左目がお吟を見つめた。乱暴な客によって崩された鬢がはらりと花魁の頬に垂れ、それまで見えなかった耳が露わになった。
 それを見たお吟の左胸が大きく拍を刻んだ。
 家屋敷の壁を殷ち地面に杙を打ち付ける大工の大槌を振るわれたような衝撃に息が止まった。顳顬から一筋汗が流れた。
「髪結いどん?」
 花魁の声がする。しかし声は聞こえるのだが何を言っているのかお吟には分からなかった。
「髪結いどん。何ぞありんしたか?」
 ただの音がお吟の耳に虚ろに響く。その間にもお吟の目は花魁の耳に釘付けとなっていた。何故。何故だ。何故この耳がここにある。ただただその疑念だけがお吟の頭の中に渦巻いていた。
「髪結いどん。顔色が悪うござんす」
 耳だ。上弦の月に舞い降りた白鷺が羽を畳んで澄まして頤を上げるような耳だ。優美な曲線が柔らかな光を孕んで螢のような柔らかな光を放つような耳だ。何故。どうして。もう出会うことも叶わぬ耳であるはずなのに。
「髪結いどん?」
 お吟の瞳が揺れる。遙か昔に失ってしまった、触れることも、そっと唇を寄せることも二度と出来ない耳であるはずなのに。なんで。なんでこの見知らぬはずの女はあの人の耳をしているんだ。あり得ない。そんなことはあり得ないのに。渦巻く思いに囚われたお吟の両眼にはもう何も映っていない。
「髪結いどん」
 鼻先に仄かな暖かさとくすぐったさを感じてお吟はふと目を寄せる。
「おうわっ」
 思考が途切れ眼前にあるものを認めて、お吟は素っ頓狂な声を上げ右脚を一歩退いて仰け反った。花魁の筋の通った優美な鼻が自分の鼻に触れんばかりに迫っている。暖かさとくすぐったさの源は花魁の息だったか。お吟は顔が熱くなるのを感じた。
「ぼうってして。気分が優れないでありんしょうか」
「い、いや。気分が悪いだなんて。そんな。魔が差しただけ。いや魔なんて差してないんだが。その。あたし」
 しどろもどろに自分でも何を口走っているのか分からない様子を見てか、花魁の右目がすうっと細くなり、柔らかそうな口が、ふ、と一息笑い声を漏らした。
「おかしな御人でありんすなぁ」
「い。いや。おかしいかな。ああ。おかしいよね。うん。おかしい」
 だめだ。このままではだめだ。お吟はぎゅっと目を瞑り被りを振ると大きく息を吐いた。
「花魁。済まない。始めようか」
 何とかそれだけ言うと、お吟は膝を折って畳の上に道具を広げ始めた。
「すぐ支度するね。花魁は座ってておくんな」
「あい」
 衣擦れの音を立てて花魁が夜具の端に座り直す。慌ただしく支度を調えたお吟は夜具を踏まないように気を配って花魁の背後で立て膝となった。
「じゃあ。まずは梳かすからね」
「あい。頼みんす」
 お吟は櫛を手にし、左掌で髪を受けながら丁寧に梳かし始めた。ああ。良い髪だ。艶やかで張りもあって。日頃の手入れが行き届いている。この手触りでは鬢付け油を足す必要もないだろう。これだけの量と質ならば、髢を使わなくともどんな形にも結い上げられそうだ。
「それにしても。非道いことをするもんだね」
 まだ動揺は収まらないが、お吟は努めて平静に世間話をと口を開いた。
「こんなことはよくあるのかい?」
「そう再々ではありんせんが、主さんの中にはたまにそういう御人もいんす」
「そうかい」
 今の言い草は素っ気なくはなかっただろうか。庖丁や匕首ではないにしても、鋏だって立派に刃物なのだ。いきなりそんなものを振り上げられて、あまつさえ元結を切られて結い上げた髪を崩し乱されるなど、相当に恐ろしい心地だっただろう。もう少し慰めの言葉を掛けた方がいいだろうか。黒髪を梳りつつ考えを巡らせるお吟の耳に、あ、と短く息を吐く花魁の声が入る。
「え。え。痛かったかい。ごめん。ごめんよ」
「痛くはありんせん。ただ」
「ただ?」
 慌てるお吟に花魁が応える。
「髪結いどんの手が誠優しゅうて、地肌が大層心地ようなりんした」
 その言葉にお吟の左胸が大きく拍動してまた顔に血が上った。ああ。何てことを言うんだこの人は。こちらは落ち着こう落ち着こうとしているのに。手にしているのが鋏ではなく柘植の櫛でよかった。気が動転して手元が狂ったらどうするんだ。止まりそうな息を何とか継ぎながらお吟は手を動かし続けた。
「ところで。髪結いどん」
「な。何だい」
「先のことでありんすが」
 花魁はお吟の胸中を知ってか知らずか穏やかな声で言った。
「わっちを見て何やら思いんしたかえ? 様子が穏やかではなさそうでありんしたが」
「そ。そうかな」
「いとう顔色が悪うござんした。わっちの顔におかしな所でもありんしたか?」
「顔。に?」
 舞い上がっていたお吟の気がすうっと低まった。天へと昇る天女が羽衣を奪われその身が逆しまに地へと落ち行く心地がした。
「顔。か」
 お吟はぽつりと呟いた。
「花魁の顔におかしいところはないと思うよ。一つもね。多分。だけど」
「髪結いどん?」
 お吟の声色が変わったことを訝しんだのか、花魁が声を低くする。お吟は長い息を一つ吐き、手を止めて噛んで含めるように話した。
「あたしはね。人の顔が分からないんだよ」
「人の顔が分からないと言いんすか?」
「見えないわけじゃない。ちゃんと見えてはいるんだ。ぽっかり空いた穴に見えるとか、霞が掛かって見えるとか、そういうことじゃないんだ」
 花魁は肩越しにお吟を伺い、次の言葉を待つように黙りこくった。
「目の上に眉があるのは知ってる。鼻は真ん中にあってその下に口があるのも分かってる。ちゃんと見えはするんだ。でもね。それが結びつかないんだよ」
「それは……生まれついてのことでありんすかえ」
「いいや。子供の時分にはちゃんと見えていたよ。確かに。ね」
 お吟は花魁の頭越しに視線を漂わせていたが、背を伸ばして花魁の頭を左右から見下ろして具合を確かめ、掌で全体を撫でつけた。
「それは。随分と不便がありんしょう」
「まぁね。それでもね。不便ではあるけれども、困りはしないんだ。顔は分からなくてもちゃんと人の区別は付けられる」
「身形を手掛かりにということでおざんすか?」
 確かに着衣や髪型は身分、年齢の証となる。
 武家や豪商は繕い誂え直した太物の古着を纏うことはない。庶民が呉服屋に赴き染めも鮮やかで織りも見事な絹の反物から着物を仕立てることもない。
 町家の娘は吹輪を結わず、武家の娘はふくら雀を結わない。市井の女は所帯を持てば島田から丸髷に変えるが、同じ丸髷でも髪を後ろ一つに束ねる根の位置は新造と年増とでは違う。歳を重ねて毛の量も張りや腰も衰えれていけば、根は高い位置では結えずに徐々に下へ下へと下がっていく。
「そうではないよ。ほら。誰しも年中同じ着物を着ているとは限らないだろ? あたしなんかはずっとこの態だけどさ。衣替えすれば着物は変わるよ。痩せたり太ったりすれば体つきも人相も変わるしね」
 花魁は興味をそそられた風で問いを重ねた。
「では。声でありんしょうか……」
「ん。確かに声は人によって違うね。でも風邪を引いただけで声はがらっと変わるさ。ずっと同じとは限らない」
「では……」
 花魁は小首を傾げて思案する様子で黙り込む。その仕草が愛らしく思われお吟の胸がまた、とくん、と音を立てる。その音が聞かれはしまいかと案ずるお吟の胸が更に早鐘となる。それを誤魔化すようにお吟は些か早口になる。
「でもね。それでもね。平気なんだよ。実を言えばね。人には生まれてから死ぬまで一生変わらないところがあるんだ。あたしはね。それを頼りに世間を渡っているんだよ」
「それは……何ざんしょう……」
 少し迷った後にお吟はそっと自らの秘密を囁いた。
「耳の形だよ」
「耳の形。でありんすかえ?」
「あたしの結髪の師匠がね。教えてくれたのさ。長年髪を結い続けて人の頭を見てるうちに気が付いたんだと。どれだけ年が行ったとしても、耳の形は変わらないんだってね。実はね。この世に同じ耳をした人は二人といないんだよ」
 花魁はしばらく黙り込んで何かを考えている風だったが、やがて合点がいったという風に肯いた。
「わっちもこれまで沢山の男と床を共にして耳を見て来んしたが、そんなことは思いも掛けないものでありんすなぁ」
 ああ。そうか。花魁の活計は男と寝ることだった。この人が見てきたのは茂っている最中の男たちのものか。そう思い至ったお吟の脳裏に、今目の前にあるのと同じ耳をした人が目合い睦み合う姿が浮かぶ。迂闊だ。そんなものを思い浮かべるとは迂闊に過ぎる。お吟は内に沸き上がる仄暗い感情を押し止めようと努めて明るい声を出そうとする。
「男。男なぁ。ああ、男なら耳は外に出てるけど、女の耳は大抵上半分ばかし鬢で隠れてるね。あたしは女にしては上背がある。そんなのが身を屈めて下から覗いて耳を確かめようってするんだ。随分と気味が悪いもんだろうね」
 はは、とお吟は笑い声を立てた。自分でも随分と乾いた笑いだと思った。一度腹に凝った感情は容易には消せないが、気を取り直して結ってしまおう。そう思い動かし掛けたお吟の手がぴたりと止まる。
「花魁。済まない」
 すっかり眉根を上げたお吟は花魁の頭から手を引いて肩を落とす。
「ごめん」
「髪結いどん? 何を謝りんすかえ?」
「その。ああと。花魁。あたしはさ。横兵庫って結ったことがないんだ」
 お吟は正直に白状した。仲之町芸者衆や素人の髪は散々結ってきた。しかしながら妓楼に伝を持たないお吟はこれまで女郎の髪を結ったことはない。ましてや兵庫髷など見ることはあっても触ったことすらない。
「ごめん。本当にごめん」
 困り果てたお吟に花魁が優しく言う。
「気に病むことはありんせん。わっちの手前勝手で髪結いどんに頼み込んだことでおざんす。髪結いどんの好きにして構いんせん」
「じゃぁ。その。お言葉に甘えて島田でいいかい?」
「あい」
 心を決めてからのお吟の手は速かった。前髪、横髪を巧みに取って仕分けると、指の脇と掌で迷いなく曲げる。元結を掛けて髪に巻き付け、出来た輪の中に右に跳ねた側を数回潜らせて人差し指でくるりと巻き取ると、左に伸びた側を噛んで、きりりと歯締めで結び込む。鬢を大きく膨らませた分、均衡を取るために髱は些か小振りに仕上げ、大ぶりの髷を仕立てる。結い櫛が舞い、鋏が踊って余分な元結を切り落とす。結い終わるまでに線香一本燃え尽きるまでの間は掛からなかった。
「最後の仕上げといこうか。櫛と簪、あ、それと飾り布貰えるかい?」
 幾分考えた様子だったが花魁はするりと立ち上がり、文机に置かれた螺鈿蒔絵も煌びやかな飾り箱を開けた。箱の上で人差し指を泳がせ塗りの櫛と白甲の簪、見事な飾りが透かし彫りされた平打ちの簪を選び取る。それらと目を引く綺麗さだが決して嫌味な派手さはない金糸の織り込まれた飾り布を手にして戻ると、花魁はお吟の前に一つ一つ丁寧に並べた。部屋のそこここに散らばっていた櫛、簪を拾わなかったのは、先程客から被った狼藉の名残をその身に留めまいとのことだとお吟は察した。
 根に飾り布を巻き落ちないようにしっかりと留める。白甲の簪を前髪の斜め下から右に二本左に二本。そして後ろ挿しの簪も左右からそれぞれ三本ずつ。最後に髷の前に塗りの櫛を左右均等に挿し挟む。結い髪の所々を毛筋立で撫でてお吟はゆっくりと息を吐く。
「上がったよ」
 花魁に告げてお吟は部屋に置かれている手鏡を取り手渡す。
「どうかな」
 鏡を覗き込んだ花魁がは感じ入ったように嘆息する。
「ああ。ほんに。見事な」
 左右に首を巡らせ俯き顔を上げ、花魁は出来上がったつぶし島田を眺めて満足そうに肯く。
「手際のよさに手筋の確かさそれに速さ。お見事でござんす」
「気に入ったかい」
「それはもう。これで安心して見世に出られんしょう。助かりんした」
 お吟はそれを聞いて安堵し道具を鬢盥に収め始めた。花魁は立ち上がり部屋の片隅に据えられた箪笥の前に進む。引き出しを開けて小箱を取り出すと中の物を手に取りお吟の前へと戻って来た。
「お礼でありんす」
 お吟の前に光る一分銀が置かれた。慌ててお吟は声を上げる。
「いけない。花魁。こいつは頂けない。他人様の島に入って髪を結ったんだ。金は受け取れないよ」
「でも。それでは気が済みんせん」
「いいんだ。髪結い同士の仁義さ。あたしは助けを請われてほんの少しばかし手を貸した。商売じゃない。それでいいんだ」
 言い置いてお吟は畳の上の一分銀を掌で押し遣ると立ち上がり鬢盥を提げた。
「じゃ。あたしはこれで」
「待っておくんなんし」
 花魁が背筋を伸ばしお吟を見上げる。
「せめて。せめて名を聞かせておくんなんし。わっちは露菊といいんす」
 お吟は露菊花魁に応える。
「あたしは吟っていうんだ」
「吟……お吟さん」
 肯きお吟は体の向きを変える。
「じゃ。ほんとにあたしはこれで」
 去り際にお吟はもう一度露菊の耳に目をやった。名残惜しさを感じながら一度ぐっと目を閉じその色形を目蓋の裏に焼き付けると、お吟は振り返ることなく足早に部屋の外へと出て行った。

 

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