(五)
次の間から小さく鼾が聞こえる。どうやら禿たちは畏まって控えている間に居眠りを始めてしまったようだ。新造の綾菊が付いていながら何という為体だと露菊は思ったが、鼾が止まらないところを見ればその綾菊もうつらうつらとしてしまっているに違いない。
もう大引けの刻限はとうに過ぎてしまい夜もとっぷりと暮れている。入れ替わり立ち替わりで痴態の繰り広げられる回し部屋での営みも終わって久しく、時折他の部屋から上得意の相手をする女郎の甘い声が聞こえてくる程度で、至って静かなものだった。
次の間の禿たちや新造の様子を見たいとは思うのだが、露菊は動けなかった。三枚重ねの夜具に横座りした露菊の膝の上には、一分の隙もなく結い整えられた白銀の髪が鎮座していた。あちらを向いた鳶を思わせる細く締まった顔を覗き込んでみる。細筆で一筆すっと線を引いたような目は静かに閉じられているが、眠っているのかは判然とはしない。
今宵もこの人はわたしを抱くことはないのだ。露菊はただ膝に頭を預けるばかりの浅黒く筋張った老人の顔を見つめた。
木場の豪商。三代続く材木問屋木曽屋の大旦那。兎角お店の三代目といえば世間知らずで放蕩者、身上を潰すものと言われるが、この木曽屋政吾郎は何事にも抜け目なく采配を振るい、自分の代で蔵を七つも八つも建てたと聞く。木場にこの人ありとも言われ、木場政と囃す者も少なくない。
初会を済ませ、裏を返して三度目に会っていざ床入りとなった時から政吾郎は肌を合わせることをしない。木場の大店の主と聞いて、年の割に色好みで金に飽かせて女遊びをする人なのかと思っていたがそうではない。触れることはあっても求められたことはただの一度もなかった。
「わっちには女子の色香はないとでもおっせえすか」
一度露菊は政吾郎に問うたことがある。政吾郎はさもつまらなそうな顔をして、細めた三白眼で露菊を見据えながら、いがらっぽい声で応えたものだ。
「むしろお前は儂の物が役に立たんとでも思っているのか?」
問いに問いで返すとは意地の悪い。そう思いはしたが口にも顔にも出さず黙した露菊に、政吾郎が腹の底から押し出すような低い声で告げる。
「儂はまだ枯れてなどおらん。女の相手など今でも造作もない。それに儂には血の繋がった倅がいる。役立たずならばその倅は一体どうやって出来たと言うんだ?」
ではどうして抱こうとしないのか。高い金を払っておきながらなぜこの躰を貪ろうとしないのか。露菊の疑問を見透かしたように政吾郎はまた三白眼を細めて冷えた視線を寄越す。
「お前の生業は何だ」
「わっちは。わっちは女郎でありんす」
「そうだ。金で買われる身だ。買われた者は買った者のものだ。儂はお前を一晩金で買った」
言葉を句切った後に政吾郎が言い放つ。
「金でお前を買った儂が金で買われたお前をどうしようと、それは儂の勝手だ。そうではないのか?」
真っ当な、あまりにも真っ当な物言いに何一つ言い返すことは出来なかった。
いかな金を払ったからとはいえ、女郎に無体なことを為す客や無理をさせる客は拒むことが出来る。一物が大きいことを男は誇りたがるが、ものには程度というものがあり、使われ続ければ女郎の躰が損なわれると見込まれる時には、妓楼の側から客にお引き取り頂くこともある。金さえ出せばいかなることも許されるというわけではない。
政吾郎は露菊に無体を働くわけでも無理をさせるわけでもない。郭を訪れる男の中には金を出した揚げ句に女郎を抱かず、一晩ゆっくりと眠らせて躰を気遣ってやる通人もいるのだが、政吾郎はそういった手合いともまた違う。
どこからか手に入れた名人の対局を記した碁譜を諳んじさせ、何局も何局も一人で打たせて勝負を再現させる。真新しい糸を渡して露菊が日頃使っている三味線や琴の糸を貼り替えさせ正しい音が出るまで調弦させる。万葉集や古今和歌集を延々と朗じさせて気に入ったものを選べと命じて紙に書き写させる。そうしてその様子を喜ぶでも喜ばないでもなく、ただ淡々と見続ける。
無理強いをするわけではない。嫌なら嫌とそう言え、と毎度毎度言い放つ。拒めば拒んだで何一つ嫌味を言うでも責めるでもなく、ただ何をするでもなく黙りこくって刻を過ごし、眠くなればなったで一人寝てしまう。そうなればただ互いに一言も発することなく、長い長い静けさが朝まで続く。
意地悪をして楽しんでいるのではと疑ったこともあったが、強ちそうだとも言い切れない。
政吾郎は毎回何かしらか土産を持参する。巻き寿司、稲荷寿司の折り詰め。草団子の包み。鮎の甘露煮。箱に入った薯蕷饅頭。大量ではないが一人で一度に食べ切るには余る量を持ってくる。四六時中腹を空かせている禿のかつらやなつめは御相伴に与っては大喜びをするが、政吾郎はまたその様子を飽きもせず眺め続ける。
ある夏には変化朝顔の鉢を持って来たこともあった。漏斗の形をした普通の花ではなく、菊のように細い花弁が集まったものや牡丹のように丸い花弁が重なったもの、薊のような尖った花弁を持つもの、葉も楓に似た普通の葉ではなく、柳の葉のように細かったりいくつにも枝分かれしていたり蕾のように丸まっていたりと様々に変化した珍しいものばかりだった。
かつらもなつめも新造の綾菊も目を丸くし政吾郎に矢継ぎ早に色々と問うていたが、政吾郎は邪険にすることなく、花や葉の形、色からそれぞれに名前が決まり、これは黄糸柳葉紅細切采咲牡丹だの紫吹掛絞石畳撫子采咲だのと名前を教えたり、変化した朝顔から取った種を蒔けばまた同じように育つとは限らないことを細かに説いたりした。
露菊は思う。この政吾郎という御仁は確かに掴み所はないが、決して悪い人でも底意地の悪い人でもないのではないだろうか。手土産の折り詰めや菓子は実は自分だけに持ってきているのではなく、禿や新造に食べさせるという意味合いが強いのではないか。この子たちが嬉しそうに食む姿を見物して、そんなことはおくびにも出さないが腹の中で喜んでいるのではないか。
露菊にさせる数々のことも全く意味のないことではなく、それを通じて露菊は様々な智慧知識が身に付いていったことは確かなことである。客の趣味嗜好に応じて歌舞音曲、交わす文の中身、座で興じる遊戯や寝物語などを様々に駆使して楽しませ気を引くことで客を繋ぎ止めることが肝要な女郎にとって、政吾郎のさせて来たことは一切無駄なものは一つもなかった。政吾郎はそういった修練をさせて自分に研鑽を積ませたいと思っているのだろうか。
妓楼では一年の半数以上を紋日を定めているが、この日は揚代も祝儀も日頃の二倍の金額が掛かる。当然この日は客足が遠のき、多くの女郎は登楼を頼み込む文を馴染みに送って必死になるが、政吾郎はそんなことをしなくとも普段の日と同じく通ってくる。むしろ紋日を狙って来るような節がある。
地獄の沙汰も金次第とは言うが、妓楼の中では兎角金が物を言う。女郎は自らを飾り付ける着物も櫛簪も己の稼ぎから払って揃えねばならない。衣替えともなれば妹女郎や禿達の分の衣装も払ってやらねばならない。金があれば台屋に頼んで好きなものを好きなだけ腹に入れることも出来る。政吾郎が紋日を選んで来ているのだとすれば、普段よりも多く金を落としてそうした出費を楽にさせようとの腹づもりがありはしないか。
様々に疑問は湧くのだが、露菊にはそれを裏付ける確証などなかった。直に問うてみたところで、金で買った者を好きにするのは客の勝手、などとまたはぐらかして本心など口にすることはあるまい。考えを重ねていた露菊が溜息を一つついたところで、突然政吾郎の薄い唇が開いた。
「足が痺れでもしたか」
眠っていたのではなかったのか。露菊は虚を突かれた。
「いえ。痺れてなどいんせん」
「嫌になったのならばそう言え。儂は構わん」
目を閉じたまま政吾郎は露菊にそう命ずる。またいつもの言い種。意地悪なのか優しいのか本当に掴み所のない人だ。露菊は諦観して囁くように声を発する。
「嫌になったら嫌になったとそう主さんに言いんす」
この程度どうということはない。留袖新造の頃、遣手に行灯部屋に押し込まれて縛られた上で板の間に長い間正座することを強いられた時の足の痛みに比べれば、三枚重ねの柔らかな夜具の上での膝枕など一晩中だってやってのけられる。
「それでいい」
政吾郎はそれだけ言うとまた黙り込んだ。
ただ刻が静かに流れた。他の部屋から聞こえてきていた睦事の声はすっかりと影を潜め、どこもかしこも寝静まってしまったようだった。政吾郎はと言えば、目を閉じ露菊の膝に頭を委ね黙し続けている。政吾郎が息をゆっくりと吸い、またゆっくりと吐く。そこには何の感情も意思も感じられない。
このお人もとうとう寝入ってしまったのか。ならばもう膝を抜いても差し支えはないだろうが、それで万一起こしてしまうのも忍びない。露菊は顔を上げてぼんやりと窓を見つめた。
芒種も時候の腐草為螢の頃。直に末候の梅子黄となりやがては夏至となる。日、一日と日は長く夜明けは早まっているが、格子窓の外はまだ明るくなる気配はない。部屋の中へと目を移せば、常夜灯がまだ我が勤めが終わる時分ではないとばかりに光を放つ。元気なものだ。それも当然か。何しろ一夜に何度も若い者が訪れて油を注ぎ足していくのだ。そうそう消えるものではない。露菊は今宵若い者は何度注ぎ足しに来たかと、半ば茫洋としながら回数を数えてみる。
「言っておくことがある」
膝の上で発せられたしわがれた声にはっとし、露菊に訪れていた眠気が一気に四散する。
「起きて。いんしたか」
「儂は一度も眠っておらん」
政吾郎は変わらず目を閉じたまま応えた。
「倅に家督を譲ることにした」
「さいざんすか」
唐突に言われて露菊はそう返すより他に言葉が見つからない。政吾郎は露菊の受け答えなど意に介さないといった風に淡々と話を続ける。
「あれもよく育った。才気もある。奉公人達にも慕われている。清濁併せ呑む度量もある。一切を任せてしまっても家を傾けるようなことはあるまい」
「隠居をしんすかえ」
「ああ。その通りだ」
頭を巡らせて政吾郎は目を開いた。感情の欠片も滲ませない射るような眼差しが露菊を見上げる。露菊はただ見つめ返すばかりだったが、しばらくして政吾郎の視線は自分の瞳を捉えているのではなく、もう少し後ろを見ているのだと気付いて瞬きをした。
「いい形だな」
一体何を見ているのかと訝しむ露菊に、政吾郎は構う素振りも見せずに言葉を放ち続ける。
「いい腕の髪結いだ」
政吾郎が見ていたのは自分の髪だったのか。漸く思い至った露菊は、瞬く間に島田を仕上げて見せた髪結いのお吟の顔を思い浮かべる。横兵庫は結ったことがないので島田で構わないかと言ったあの申し訳なさそうな顔。いや。申し訳ないのはこちらの方だ。こうして仕上げて夜見世に間に合わせてくれたからこそ、自分は変わらず客と相対することが出来たのだ。
思えば不思議な人だった。人の顔が分からない、それを耳の形を見分けることで克服した、という話もさることながら、あの身形は。露菊は生まれ故郷を思い起こさずにはいられなかった。
生まれ育ったあの家をよく訪れた近郷の百姓娘。青物や芋を届け、家の細々とした雑用を請け負いこなし、合間によく遊んでくれたあのお姉さんも小袖の下に細身の袴を履いていた。国を離れて江戸表へと来てからは、あのような身形の女の人を見たことがない。郭に入る前に暫く過ごしていた間、何人もの百姓女や漁師の妻達に会ったが、誰も仕事をする時は着物の裾を捲り上げるだけでわざわざあんなものを履く者は一人もいなかった。
お吟が身につけていたのは軽杉というのだろうが、故郷ではあれを雪袴と呼んでいた。幼い自分と遊んでくれたお姉さんも、お吟のように髪は結わずに下ろした髪を布で包んで纏めていた。まるで郷里の人が百里も二百里も越えた場所から、ぽん、と江戸まで飛んで来た。露菊はついそんな馬鹿げたことを思ってしまった。
「気に入ったのだな。その者を」
心の中を読まれたような政吾郎の言葉に露菊の心の臓が大きく脈打った。
「いっとう速い手筋でおざんした。あんな見事な手業にはお目に掛かったことがおざんせん」
「そうか」
政吾郎はまた目を閉じ深く息をして、露菊の膝に委ねた頭の位置を少し変えた。また黙り込んでしまった政吾郎だったが、しばらくして忘れていたことを思い出したかのようにぽつりと漏らす。
「また呼べばいい。お前がどこにいようと」
この気まぐれのような政吾郎の物言いの言わんとするところを露菊はこの時には深く考えてみることをしなかった。