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(六)

 

 お吟は頭を抱えていた。さてどうしたものかと思案しては、結論の出ないまままた頭を抱えるの繰り返しで既に半刻は過ぎただろうか。ついにお吟は長屋の白茶けた畳の上に大の字になり天井板とにらめっこを始めた。
 頭の中で何枚もの一文銭が渦巻き波打ち宙を舞う。ばらばらに蠢く一文銭を一枚、二枚、三枚と数え十六枚の塊にして、またぐしゃぐしゃにかき混ぜる。一文。二文。六文。八文。十二文。ああ十六文。十六文だよ。
「ああもう」
 一声叫んだお吟が弾みを付けて上体を起こす。眉間に力が入る。口がへの字に曲がる。その顰めっ面を貼り付けたまま立ち上がって土間の竈へと大股で歩み寄る。釜を持ち上げ脇にどかし、上から両腕を突っ込む。素手で消し炭を掻き分け灰を脇に寄せるうち、竈の底から埋まっていた常滑焼の陶器の蓋が顔を出す。縁へ沿って手を深く突っ込みお吟が目当てのものを引っ張り出す。土と灰にまみれて現れたのは、茶色い上薬の掛けられた半胴瓶だった。
 自分で火を使うことが出来ないお吟にとっては竈など無用の長物なのだが、大切な物の隠し場所には重宝していた。長屋に手癖の悪い者などいないしこれまで泥棒になど入られたことはなかったが、日頃火が起こされ続けているはずの竈の下に瓶が埋め隠されているなど努々誰も思わないだろう。
「よっこいしょっと」
 掛け声を発して上がり框に腰掛け、お吟は足下の土間に置いた瓶の蓋を開ける。中から覗くのは梅干しでも糠床でもなく、青大将のようにとぐろを巻く銅銭の束だった。
 お吟は銭緡を一つ取り出して目の前にぶら下げる。綴られた銭の枚数は九十六枚、これを切り崩さず使えば九十六文ではなく百文で通用する。いま手元にある細かい銭は全部で七文。この封を切るべきか。切ってばら銭を作るべきか。お吟は逡巡する。
 仲之町芸者や引手茶屋の結髪は付け払いで、纏めて掛け取りが出来るのは年二回、盆と大晦日の二日なのだが、七月の盆までにはまだ一月近く間がある。自分が掛け取り出来るということは、即ち自分の付けも纏めて払わなければならないということでもある。長屋の店賃、鬢付け油や元結の仕入れ分、薪は使わないにしても行灯の油や炭代等々日々使うものなど、諸々纏めて払うには百文で通用する銭緡のまま置いておくのが都合が良い。
 しかし今日はどうしても十六文手元に欲しい。あと九文どうしても欲しい。誰彼構わずとっ捕まえて髪を結って結い賃をせしめることも出来なくはないが、そんな追い剥ぎのような真似が上手くいくとも思えない。だが明日になっては意味がない。今日。どうしても今日なのだ。
 意を決してお吟は鋏を手に取って銭緡の封を切った。じゃらじゃらと音を立てて銭が半胴瓶の中に散らばる。お吟はそこから七文数えて拾い上げ、瓶に蓋を被せてまた竈の中に押し込んだ。
 左右の手に分けて十六文握りしめ、長屋を飛び出したお吟は揚屋町町内の菓子屋へと足を急がせる。今日菓子を買う客は多いだろうから菓子屋もその辺りを見越して数を勘定して作っているだろう。今のうちから売り切れるなどということはあるまい。そうは思うのだがお吟の足は早まりこそすれ遅くなるということがない。
 菓子屋の前に何人もの客がいる。それを認めたお吟は小走りとなった。胸が高鳴る。我ながらまるで子供のようだと苦笑いが浮かぶ。店先に着いたお吟の目の前で粉だらけの前掛けをした男が平台をひょいと持ち上げ店の奥へと引っ込む。まさか品切れかとお吟が肩を落としかけたところに、奥からまた別の者が菓子を並べた平台を持って出て店先に据える。
「いらっっしゃい」
 腹の底から安堵の息を吐き出したお吟に店の者が声を掛ける。お吟はすかさず平台の上に並べられた菓子を指さし一息に捲し立てる。
「この餅菓子十六個」
「へい」
 菓子屋は慣れた手つきで菓子を十六個取り経木に並べると紐で括ってお吟に差し出す。右手左手と順に差し延べ開いて銭を払って包みを受け取ったお吟の口元が緩んだ。
「嬉しそうだね姐さん。ひのふのみのよっ……確かに十六文。毎度」
「へへ。お使い物なんだ」
「そうですかい。そいつは良かった。落とさずしっかり持って行きなせぇ」
「あいよ」
「毎度」
 店先を去るお吟の背中に声が掛かる。
「しっかりってったって、この銭みたいにぎゅっと握るんじゃないよ。潰れちまうからね」
 お吟は首を竦めて赤面する。菓子屋に渡した銭は道すがら握りしめた手の中で温もってはいなかったか。手汗に濡れてはいなかったか。まあそんなことはこの際どうでもいい。先を急ごう。お吟は角町へと足を急かした。
 この餅菓子があればあの露菊という花魁に会う口実になる。何と言っても今日は六月十六日、嘉祥の日だ。餅菓子十六個を十六文で買い求め笑うことなく食すれば疫病退散、その先一年無病息災で暮らせる。たまたま得意先で貰ったんだ一緒にどうかと思ってその後髪の具合はどうだい、とでも言えば済む。会いたくてまた来ました、なんてこっ恥ずかしくて言えたもんじゃない。お吟は胸中で独りごちる。
 さていよいよ妓楼揚羽屋の前だ、と勢い込んだお吟だったが、足は止まらず暖簾を潜ることもなくそのまま行き過ぎてしまう。暫く行ってくるりと踵を返して足を急かすがまた通り過ぎる。行けば戻る、戻れば行く、何度も揚羽屋の見世先を行き来しながらお吟はどうしたものかと迷った。
 大丈夫だろうか。露菊に会うための言い訳は考えてはみたが、それで話が通るだろうか。妓楼に出入りする髪結いは馴染みの者だけ。自分が揚羽屋に来たことを他人の縄張りを荒らしに来たなどと、この見世の髪結いに勘ぐられたりはしないだろうか。もちろんそんなつもりは毛頭無い。けれども痛くもない腹を探られた時、上手く釈明出来るだろうか。
「あ。髪結いの。お吟さん」
 揚羽屋の暖簾からひょっこり顔を出した者に声を掛けられ、びくりとお吟の体が跳ね上がる。ええと。この七輪の上で反っくり返ったあたりめのような耳は。ああ。この前あたしに露菊花魁の結髪を泣きついてきた捨三さんか。
「あ。ども。いい陽気で」
 取り繕ったお吟に捨三は暖簾から身を乗り出して手を招く。
「え」
 思わず短い声を吐いて固まるお吟に更にひらひらと手招きをして捨三は明るく言う。
「お吟さん。花魁を訪ねて来て下すったんだね」
 声が高い声が高いと焦るお吟だったが、捨三は一向に気にする風もなくお吟に歩み寄る。
「花魁、喜びますぜ。あれからずっとお吟さんのことを恩人だ恩人だと言っていなすったんだ」
「あたし、迷惑じゃないかね」
「そんなことはありませんや。今日の昼見世は至って閑としておりやす。花魁はこの間に文でもと部屋でお寛ぎでさぁ」
 捨三はそう言うと暖簾を掻き上げ土間に向かって声を張り上げる。
「ええ。露菊花魁へお客人。露菊花魁の恩人様。恩人様。ご訪問」
 止めとくれ止めとくれと内心お吟は気が気ではない。
「へーい」
 土間の中からおらぶ声が返ってくる。ああ。もうだめだ。もう腹を括るしかない。お吟は先に立って中へと入った捨三の後を追った。
 なるたけ人の目を引かぬようにと階段を上がり廊下を進みお吟は露菊の部屋へと行き着く。ひょいと覗くと新造が禿二人を相手に字の手解きをしているらしい姿が目に入る。散らばった書き損じの真ん中で紙に額が着く位に前屈みになりぎこちなく筆を進めていた幼子達が顔を上げる。
「あ。このまえのかみゆいどん」
 その視線を追って禿の筆遣いを見ていた新造がお吟の方を向く。新造は音を立てることなく立ち上がり奥の間へと消える。
「なにかもってる」
「なんだろう」
「なんだろう」
 禿達がひそひそと言葉を交わす。何だか微笑ましいなと思っているお吟の耳に涼やかな声が届く。
「お入りなんし」
 呼ばれてお吟は次の間と奥の部屋を隔てる屏風の端から中を覗き込む。捨三が言った通り、そこには巻紙と筆を手にして寛いだように座る露菊の姿があった。
「どうだい、その。髪の具合は」
 お吟は屏風を回り込んで部屋に入りつつ努めて平静な声を繕って話し掛ける。
「具合はよござんす。さ。こちらへ」
 お吟は促されるまま巻紙を片付け筆を仕舞う露菊の前に進んで膝を折る。
「よう来なんした」
 笹紅を引いた艶やかな緑色の唇が綻びるのが見える。世の男達はこの婀娜っぽさに魅入られることだろう。けれどお吟の目はその唇ではなく露菊の右耳に左耳に吸い寄せられていた。この上弦の月に舞い降りた白鷺が羽を畳んで澄まして頤を上げるような耳。あの人と同じ耳。また巡り会えたお吟は陶然としていた。
「髪結いどん?」
 露菊の声にお吟ははっとする。ああ。ぼうっとしている場合じゃない。慌ててお吟は矢継ぎ早に言葉を繰り出した。
「ああ。これ。持ってきたんだ。餅菓子を十六個。ほら。今日は六月十六日で嘉祥の日だろ。食べて貰おうかなって。笑っちゃいけないんだ。笑わずに残さず食べきると疫病除けになって……」
 勢いよく言ったお吟の言葉が途切れる。お吟の上せてしまった頭がしゅんと冷める。露菊は何も言わない。ああ。だめだ。だめだあたしは。お吟は肩を落とした。
「ああ、そうか。あたしよりよっぽど稼ぐ花魁はこんなもんよりもっと上等なものがいいよね……。ああ……何であたしは。こんな」
「お吟さん」
 名を呼ばれてお吟は思わず目を見開く。
「嬉しゅうおざんす。ほんに嬉しゅうおざんす」
 その優しい声音にお吟は救われる思いがした。
「おもちだって」
「じゅうろっこもあるって」
「もらえるかな」
「たべられるかな」
 屏風の影からこそこそ話し声が聞こえる。その幼気な声に更にお吟は心和らいだ。お吟は口の脇に手を添えてそっと屏風に向かって囁く。
「後で分けて貰いな」
 屏風の左右からひょっこりと顔が覗く。暫く様子を伺っていた禿達は喜んだようで黄色い声を上げてまた屏風の向こうへ引っ込んだ。
「有り難いことでおざんす」
 露菊は優雅な仕草で頭を下げた。
「いや。その。ええと」
「お金の多い少ない、品の珍しい珍しくないではありんせん。わっちはお吟さんのその気持ちが本当に嬉しゅうおざんす」
 お吟は胸を撫で下ろす。散々迷った。迷って銭緡を切り崩した。会いたい気持ちはあったが本当に会えるのだろうかと心配だった。露菊は今あたしに嬉しいと言ってくれた。お吟の中に温かいものが広がっていく。
「折角でありんす。お吟さんも一緒に」
 露菊は菓子の包みを両手で持ち押し頂くと、開いて二人の間に置いて懐紙を取り出し餅菓子を一つ乗せるとお吟に差し出した。
「さぁ」
「いいのかい?」
「あい」
「じゃ、じゃあ。遠慮なく」
 菓子を受け取るお吟の指が露菊の手に触れる。胸の高鳴りを抑え付け、手が震えないようにするのがやっとだった。
「今お茶を進ぜんしょう」
「え。お茶……を……煎れるのかい?」
「本当ならばお抹茶を点てたいところでありんすが、お薄で堪忍しておくんなんし」
「いや、あの、そんな」
 お吟はしどろもどろになる。お茶を煎れるとなれば当然熱いお茶なのだろう。拙い。それは相当に拙い。お吟は焦る。
「これ。綾菊」
 露菊が屏風の方へ顔を傾けて促せば、あい、と返事がして暫くの後に、新造が盆の上に金泥を添えた赤絵も眩しいばかりの茶器を一式と螺鈿細工も見事な茶筒を乗せて現れる。新造は露菊の前に盆を置きしずしずと屏風の向こうに退く。露菊は受け取った一式を据えて支度をすると、部屋の隅に置かれた火鉢に掛かる鉄瓶から湯気の立つ湯を茶器に注いで手ずから茶を煎れてお吟の前に恭しく置いた。
「さ。食べなんし」
「あ。え。あ。ああ」
 お吟が普段使うような分厚く野暮ったい湯飲みとは違った受け皿と蓋の揃った値の張りそうな茶器に臆したばかりではない。蓋をはぐれば立ち上るであろう熱気をお吟は恐れていた。だめだ。熱いものはだめだ。熱気を発するような熱いものはだめなんだ。あたしは口を付けられない。でも。お吟は尻込みしつつ考える。
 小首を傾げて茶を飲むお吟を待つような風の露菊の様子を伺い、致し方ないとお吟は腹を括った。露菊の好意を無碍には出来ない。そして何よりも拒むことでこの人に嫌われたりしたくない。お吟はおずおずと茶器に口を付けた。しかしその露菊に嫌われたくないという思いが徒となってしまった。
「う……」
 一言唸ったお吟の手から茶器が滑り落ちる。熱い茶が後ろに仰け反り喉を押さえるお吟の膝の前に零れる。あ、と露菊が声を発する間もなくお吟の体が崩れ落ちる。しまった。吸ってしまった。油断した。あたしとしたことが。顔を顰めてそう思っても後の祭り、お吟は自分の体が引き付けを起こすのを感じた。
「髪結いどん。お吟さん」
 露菊が慌ててお吟の傍らへと寄る。抱き起こそうとするが、お吟は海老のように固く背を反らせて身を震わせていて、露菊にはどう手を掛けて良いのかが分からない。お吟が喘ぐ。喉元に添えた手の指が肌に食い込む。いけない。露菊はその手を両手で引き剥がした。
 爪を食い込ませる肌を失ったお吟の手が露菊の手を掴む。
「あ」
 力自慢の男に握りつぶされたらかくの如しといった強烈な痛みが露菊の手に走る。褥の上で腹の上に乗る客に力任せに掴まれたことはある。けれどもその痛みとは比べものにならない位の強さに露菊の顔が歪む。骨も砕けんばかりに握られた手から見る見る血の気が失われ蝋のように白くなる。
「お吟さん。お吟さん」
 それでも露菊は手を振り解かなかった。お吟の顔に己の顔を寄せて必死に呼び掛ける。ひ、とお吟の喉が鳴る。苦しそうに何度も何度も鳴る。息が掛かる位に顔を寄せているのだが、露菊の肌はお吟の呼気を感じることが出来ない。息を吸ってはいる。けれどもお吟は吐くことが出来なくなっているのだ。露菊は渾身の力を込めてお吟を横に倒しその背に腕を回し懸命に摩り続けた。
「ひ。か。か。い。あ。い」
 お吟の開かれた口から出る声はただ浅く息を吸う度に喉が鳴っているだけのもので、全く言葉の体をなしてはいない。
「しっかり。しっかりしなんし」
 露菊は次の間に控える綾菊に声を張り上げる。
「お医者を。お医者を早よう」
 屏風から顔を覗かせた綾菊は部屋の中の様を見ると、弾かれるように廊下へと走る。姉女郎とお客の様子を覗いた禿達は何が起こったのかも分からず、おろおろとして屏風の横に座り込むばかりで声も上げない。
「しっかり。しっかり」
「ね……え……さ」
 虚ろな目をしたお吟の口が動く。露菊はお吟の口元に耳を寄せる。譫言のように何かを言っている。
「ね……えさ……ゆ……る……し……と……とさ……や……め……」
 お吟は何かを思い出している。それが何かは分からない。ねえさん。姉のことだろうか。許しを請うているのか。ととさん。父親に思い止まるように頼んでいるのか。お吟の頭の中で一体何が起きているのか。露菊は握る力を次第に弱めていくお吟の手をしっかりと握った。
「……ゆるして」
 お吟の目がふっと暗くなりそのまま目を閉じる。反り固まった体から糸が切れたように力が失われる。いけない。露菊の顔から血の気が引く。顔に塗った白粉の下で蒼白となった露菊が叫ぶ。
「お吟さん。お吟さん。お医者。早うお医者を。拝みんす。拝みんす」

 暗い。なんだか暗い。どうして暗いんだろう。ああ。背が痛い。重い荷物を背負わされた後のようだ。暗い。何で暗い。え。ほの明るいのかこれは。何となく光を感じる。これは。どうしたこと。あたしは。目を閉じているのか。
 そう思い至ってお吟は目蓋を開いた。格子が見える。あれは天井か。横になっているんだな。そういえば背中の下がやけにふかふかする。どこに寝ているんだっけ。あたしは確か。確か露菊花魁の。
 露菊という名を思い出してお吟は飛び起きた。
「まだ休んでいなんし」
 そうだこの声は露菊の声だ。あたしは茶の熱い湯気を吸って発作を起こしたのだ。倒れてしまったのだ。お吟は長座のまま頭を抱えた。何てことだ。悔悟の念に駆られるお吟の肩にそっと露菊の手が添えられる。
「お医者に診てもらいんした。もう心配はありんせん。直に良くなるとお医者はおっせえした」
「済まない花魁。あたしは……」
「謝るのはわっちの方でおざんす」
 露菊はお吟の脇に寄って顔を覗き込む。
「何かとんでもないことをしてしまいんした。堪忍しておくんなんし。拝みんすえ」
「いや、違う、違うよ花魁。あたしが。あたしがいけないんだ。済まない。本当に済まない」
 頭を振ってお吟は必死に言う。
「あたしはこれで」
 そう言って立ち上がろうとするが、足に力が入らずお吟は緋の三枚重ねの夜具の上に腰を落としてしまう。
「まだ無理でおざんしょう。もう少し。もう少し休んでいきなんし」
 狼狽するお吟に露菊は優しく語り掛ける。お吟は項垂れて仕方なくその言葉に従うことにした。
 部屋の中はほんのりとした明るさに包まれていた。視線を振れば灯された行灯が見える。この部屋を訪れたのは昼見世の頃、となれば今はもう夜見世になってしまったのか。この部屋に自分が寝かされていたとなれば、露菊は当然客を取っていない。お吟は露菊におずおずと尋ねる。
「あたしがこのままいたら困るんじゃないのかい?」
 露菊はその意味を察して柔らかい声で答える。
「今夜は休みにしてもらいんした。心配いりんせん」
 休みにしたということは身揚げか。露菊は自分で自分の揚げ代を払って時を作ったということか。自分のために医者も呼んだと言っていなかったか。何ということだ。
「花魁。揚代は何としても払う。医者に診てもらった分も必ず返す。ただ。少し待っていて欲しい。今は纏まった金が……」
「わっちを見くびるものではおざんせんえ。病の人に払いをさせるほどわっちは鬼ではありんせん。お吟さんはわっちの大切な恩人お客人。わっちが好きで恩人と過ごすために自分から暇を作ったのでおざんす。気に病むことなどありんせん」
 済まない、と言い掛けてお吟は言葉を飲み込んだ。こうまで思い遣ってくれている露菊には、これ以上詫びの言葉を投げ掛けるのは却って失礼だ。
「ありがとう……」
 お吟は心から礼を告げた。
 部屋と次の間を仕切る屏風の向こうから、どこかの御大尽が宴席でも設けているのだろう、賑やかな三味線の音と笑い声が聞こえてくる。あたしの馴染みの仲之町芸者の誰か来ていたりするのかな。楽しそうだな。お吟はぼんやりと思った。お囃子の音に消されて聞こえてくることはないけれども、各々の部屋でも回し部屋ででも女達は淫靡な声を上げているのだろうか。男達は楽しんでいるのだろうな。でも。あたしの気は重い。沈んでしまっている。お吟の顔からは表情というものが消えていた。
「あたしはね……熱いものがだめなんだ……」
 低い声でお吟が呟く。
「猫舌ということじゃなくってね。熱気がだめなんだ。湯気とか。そんなもの。吸っちまうとね。あんな風に息が出来なくなってしまうんだ」
 露菊にはお吟の瞳は部屋の中の物を何一つ映してはいないが、その遠くを見るような視線の先にはお吟にとって何か特別な物事があるのだと思えた。
「十一の頃さ。火事に遭ったんだ。運良く生き残ったんだけど、あの時に吸った喉を灼くような熱気をさ。思い出しちまうんだ」
「そんなことが……辛うおざんしたなぁ」
 露菊はそう相槌を打ったが、お吟の耳には届いてはいないらしく、まるで読本でも読むかのようにお吟は語り続けた。
「家は油問屋でさ。あたしはそこの娘だったんだ。娘って言っても妾の子でね。おっ母さんか死んじまったんでお父っつぁんに引き取られたんだけどさ。継母には疎まれて。奉公人には冷たくされて。あたしには針の筵だったさ。辛かったよ。でもさ。腹違いの姉だけはさ。可愛がってくれたんだ」
 お吟の頭の中にはきっとその頃の光景が絵巻物のように広がっていて、今お吟はそれを見ながら話をしているのに違いない。露菊は思った。
「好きだった。あたしは姉さんが好きだった。六つ上だったんだ。好きで好きで好きで仕方なかった。片親だけだけど血は繋がってる。それでも好きだったんだよ。だから。だからあんなことをした」
 お吟の眉根が上がり目尻が下がって苦しそうな顔になる。
「姉さんが手代とね。密通してるとこを見ちまったんだ。あっちの部屋でさ。お客が女郎の上に乗ってるだろ? ここまで声は聞こえてこないけどさ。そんなさ。そんな風に隠れて何度も何度も体を重ね合ってたんだ」
 露菊はただ聞くばかりだった。言葉を挟もうにも何と言って良いのか分からない。そもそも口を挟んで良いものか。黙するより他になかった。
「お父っつぁんに告げたよ。告げ口したよ。止めて貰いたいって一心で。でも。言わなきゃ良かったんだ。言わなきゃ。姉さんは首を括ったりしなかったんだ」
 お吟の喉から重い息が漏れる。
「蔵の太い梁にね。手代と一緒にぶら下がってたよ。お父っつぁんは手代を責めて責めて責めてね。その青痣のにまみれた顔の横にね。姉さんの白い白い顔が並んでてさ。二人の手は白い白い手拭いで繋がれててさ。お父っつぁんは狂った。家中を歩き回って大声で泣いた。泣いて泣いて泣き尽くして。とうとう家に火を放ったんだ」
 露菊の息が止まった。
「何しろ油なら沢山あったからね。家には。よく燃えたよ。派手にね。あっという間だったよ。みんな無くなった。無くなっちまったんだ。跡形もなく。みんな死んじまった。お父っっつぁんも。奉公人も。みんな焼けちまった」
 露菊の胸が軋む。お吟が倒れた時に譫言のように言っていたのはこのことなのか。姉さん赦して。父さん止めて。露菊の瞳が潤んだ。
「あたしは助かった。助かって遠縁の髪結いしてた伯父に貰われた。そこで仕込まれて伝を辿って郭に来た。伯父に貰われた時、あたしは声が出せなかった。それに。それに。人の顔が分からなくなってた。それまでは分かったはずなのに。はっきりと見えたはずなのに。あれだけ大好きだった姉さんの顔がさ。思い出せないんだ。目があって口があって鼻があって眉があって。それは分かってても顔にならないんだ。何度も何度も見てたはずなのに」
 お吟は熱に浮かされるように発し続けた言葉をそこで漸く区切った。暫しの沈黙の後、お吟は露菊がそれまでに聞き知っている声とは全く違う声で唸るように言った。
「あんた。焼け残ると人はどんな風になるか知ってるかい」
 その剣呑な雰囲気に露菊の背筋が震えた。この人はこんな声も出すのか。明るいお吟の声。照れはにかむ物言い。少しお調子者だと思わせる朗らかさ。そんなものとはかけ離れた、地の底から何かが這い出るような声だった。
「腕がね。曲がるんだよ。蟷螂が鎌を構えて獲物を狙うように。こんな風にさ」
 お吟は両肘を曲げて握った拳を顔の前に引きつける。
「みんなこんな風だった。黒く。黒くなって。お父っつぁんは骨も残らなかった。けど。焼け残った人はみんなこんなだった。真っ黒に。真っ黒になって。顔なんかどこにもありゃしないんだ分からないんだあったはずなのに」
 お吟は堰を切ったように捲し立て始めた。
「あたしがやったんだあたしが言わなきゃ言いつけなきゃそんなことにはならなかったんだあたしが姉さんを殺したんだあんなに好きだったのにみんな殺した死んだんだあたしが全部悪いんだあたしがあたしが――」
 唐突にお吟の言葉が遮られた。
 口を塞がれお吟の声が行き場を失った。お吟の鼻を芳香がくすぐる。甘い匂い油の香り。そして白粉の匂い。唇に何か柔らかいものを感じる。これは。紅の味なのか。目を見開いたお吟が鼻から長い息を吐き出す。
 お吟の頭を抱えて露菊は長く長く唇を重ねた。そうすることでしかお吟を黙らせることは出来ないと思った。もう言わなくていい。言わないで。でも言葉で言ってもきっと伝わらない。それならば。
 お吟は自分の中に何か大きなものが傾れ込んでくるのを感じた。これは波。力強い水の流れ。自分の中で燃え上がる炎を覆い遠くへ遠くへと押し遣っていく。心臓が溶ける。息が和らぐ。頭の芯が雫となって滴り落ちる。落ちていく。真っ逆さまになって雲の上へ星の向こうへ天高く落ち続ける。果てへ。果てへと。
 お吟の息が落ち着いたことを確かめ、露菊はそっと唇を離した。二人の口から光る細い線が互いを結びつけるように伸び、そして消えた。笹紅を差した露菊の唇は緑色の光沢を失って紅色に変わりしっとりと濡れていた。
「あたし……あたし……」
 正気を取り戻したお吟が口籠もる。露菊はそれを見てゆっくりと首を左右に振る。
「お吟さん。ようおざんすよ」
「え……」
「もう泣いてもようおざんす。我慢することなどありんせん」
 そう言われたお吟の両目から温かいものが滑り落ちる。これは。涙なのか。あたしは泣いているのか。泣いてもいいのか。泣いていいんだ。あたしは。あの時あたしは泣かなかった。いや。泣けなかったんだ。そうか。泣いていいんだ。一つ一つ確かめるように考えを巡らすお吟の頭をそっと露菊が胸に抱く。
「よう生きなんした。これまでよう頑張りんしたなぁ」
 されるがままにお吟は横顔を露菊の胸に預ける。流れる涙は止まることを知らない。そっと顔を上げてみる。目の前にあの大好きだった人と同じものがある。
「姉さんと……同じ耳……」
 手を伸ばしてそっと触れてみる。指先で輪郭をなぞりながら掠れ声でお吟が呟く。
「もう一度。こんな風に触りたかった。こんな風に。唇を吸って貰いたかった。抱き締めて貰いたかった」
 お吟の声が震える。また露菊の腕に力が入る。それは優しい優しい力だった。堪えきれずにお吟はしゃくり上げる。情動を抑えきれなくなり露菊の胸に顔を押しつけ叫ぶ。
「ねえさぁんねえさぁんごめんよねえさぁんごめんよぉぉぉぉぉねえさぁぁぁぁぁん」
 泣きじゃくるお吟をそっと抱き締めながら露菊も涙した。
「泣きなんし。いっぱい泣きなんし。ね?」
 そっと露菊は囁く。泣き疲れるまで泣けばいい。この胸をその涙でしとど濡らせばいい。一晩中こうしていてあげるから。この世には二つとして同じ耳はないのだとお吟は言った。自分はこの人が慕い恋い焦がれた人、その人ではない。けれどもわたしの耳はその人と同じ形をしているのだ。何の奇瑞かは知らない。わたしはその人の代わりにはなれない。でもそれでも構わない。ただ己の快楽のためにこの躰を求める男達とは違う。この人は切なる思いからこのわたしを求めているのだ。
 ただただ愛しさが募った。露菊はお吟が愛おしくてならなかった。ついこの間出会ったばかりだというのに。こんなにも人のことを愛しく思うものなのか。露菊目からは涙が零れ、頬に微笑が浮かんでいた。
 夜は長かった。泣き疲れ果ててしまったのか、いつしか自分の胸の中で穏やかな寝息を立てるお吟を露菊は抱き続けた。鶏が鳴く頃を過ぎても、ただただ抱き続けた。

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