(四)
男は夢を見た。
故郷で穏やかに過ごしていた頃の夢だった。もう二度と帰ることの叶わない刻の記憶が鮮やかに蘇った。
夢の中で男は少年の姿をしている。父に連れられ鳥居を潜り社殿へと続く石段を上っている。
注連縄の張り巡らされた御神木の陰から幼女が覗いている。男が見つめると幼女は社殿へと駆け出す。
それが最初の出会い。
男は父に伴って何度も神社を訪れる。小藩の寺社奉行を支える与力、それが父の御役目である。
何があってもこの社は守らねばならぬ。社家も守らねばならぬ。男の父が口癖のように言う。
男がその意味を知るにはまだ幼い。その幼さ故に男は幼女と心を通わせてしまう。
初めは一言、やがて二言。交わす言葉が増えるにつれて二人の間に横たわる心の隔たりは少なくなる。
男は幼女を妹のように思う。
綻ぶ野の花のような笑顔を愛らしいと思う。ころころと子犬のように快活に駈けたかと思えば、何かを見つけては神妙な顔つきで飽きることなく眺め続ける、そんな伸びやかな様に接するにつけ、つい微笑まずにはいられない。
山に入ろうと持ちかけたのはどちらからだろう。春まだ早い頃のこと。山中に堅香子の茂る原がある、さながら緑地に紫を散らした薄衣を述べたような景色である、それを見に行こうという話になる。
長閑な春の日だ。しかしそう高くはないとはいえ、山というものを侮っしまう。
行けども行けども目指す地は見つからない。山道はやがて獣道へと変わり、それすら途切れてしまう。引き返した方がいいのではないかと思うときには、もう陽が傾きかけている。足元から冷気が忍び寄ってくる。これはいけない、と思うのも束の間、辺りは釣瓶落としに暗くなってしまう。
月影も星明かりも恃めぬ闇の中で身動き一つ出来ない。染みいる湿り気を帯びた冷気は身体を強ばらせるばかりでなく心をも凝らせる。臆すばかりの男は一本の杭と成り果てただ立つばかりだ。
どこからともなく響いた長く尾を引く甲高い鳴き声が男の身体を弾く。鼓動が高まる。いても立ってもいられず男は駆け出す。狼はどこまで迫っているか分からない。そのことが男の胸中に広がる不安を更に膨らませる。
何度も転ぶ。木にぶつかり枝葉で顔を擦り、そこここに鈍い疼きや火で炙るような痛みを感じる。
すすり泣く声が男の足を止めさせる。不安に苛まれ助けを求めるか弱い声。狐狸の類いではない。
這うようにして斜面を登り、手探りで探し当てた幼女の体をかき抱く。幼女の泣き声が一瞬止まり、再び辺りの空気を震わせる。その音からは不安の色は消え去り、安堵の思いが痛いくらいに伝わってくる。
男は幼女を背に負ぶる。何としても二人で帰らねばならない。幼女が自分の体に預けているのは、命そのものの重さなのだ。この二本の脚が支えているのは自分の命だ。どちらも失わせるわけには行かない。
時間を掛けてゆっくりと山を下る。自分の汗と夜露で着物はぐっしょりと濡れている。時折立ち止まり息を整える間に、濡れた衣服に山の冷気が纏わり付いてどんどんと体温が奪われていく。
背中に負ぶった幼女の体が段々重くなる。寒さに弱って力が入らなくなっている。どんな場所でもいい。この寒さを凌げる場所が欲しい。
漸く里の端に辿り着き、畑の脇に立つ傾き掛けた小屋を見つけて転がり込む。もう一歩も歩けないくらいに衰弱している。小屋の中に積まれた稲藁に幼女を横たえ、男も倒れ込む。
乾いた稲藁は冷え切った頬には暖かく、男は全てを吸い尽くされるような眠気を感じる。目蓋は重く開けているのは容易ではない。男の意識は急速に闇へと落ちていく。
男は呻き声に目を覚ます。傍らで横たわる幼女が荒い息をしている。そっと手を伸ばし額に当てると、じっとりとした脂汗の感触と焼けるような熱が伝わってくる。
男はどうすべきか迷う。このまま山の夜気にすっかり濡れてしまった衣を纏わせていると余計体に障るのではないか。いやむしろ熱があるのならば体を冷やす意味でもこのままでいいのではないか。考えあぐねてやがて男は意を決して幼女の衣に手を掛ける。
濡れそぼった衣は重く、帯は水気を孕んで軋み中々思うようにはいかない。それでも何とか衣を剥ぐと、男は稲藁から柔らかそうなものをまとめて幼女の体を拭う。
明かり取りの小窓から月の光が差し込む。男は息を飲む。月明かりに浮かび上がる幼女の白い肢体。その腰元の肌に浮かんだ不思議な紋様に目が釘付けとなる。
まるで蝶が羽を広げて休んでいるように見える。痣のようにも思えるし、誰かが筆を施した図像のようにも見える。紋様は肌に浮かび上がるかと思えば、掻き消すようにように見えなくなり、またしばらく経てば現れ消えるを繰り返す。
紋様が現れるときに幼女は苦しそうに呻き、消えるときには楽になるのか呼吸が整う。男にはこの蝶のような紋様が幼女の命を吸い取ってしまう悪しきもののように思われる。
男は幼女のそばを片時も離れず全身に浮かぶ脂汗を乾いた藁で拭い、濡れそぼった衣の袖を額に当ててやる。今は自分が何とかせねばならぬ。夜が明けたら里の者に助けを請うべく一目散に駆けねばならぬ。それまでは何があっても幼女を守らねば。
男の決意は固かったが、長くは保たない。男もまた弱っている。月も傾き遠くで鶏の鳴く声が聞こえる頃には、男は手を動かすこともままならなくなってしまう。
男の意識が途切れる。
男は幼女に覆い被さるようにして気を失っていところを里の百姓に見つけられたのだと後になって聞かされる。屋敷に運ばれる道中のこと。介抱されたこと。医者に診せられたこと。子細を告げられても我が身のことながら他人事のようにしか思われない。
数日寝込み漸く床を離れられるようになって、奥座敷に来るよう父に命じられる。父は男を叱らない。ただ、幼女の腰にある紋様を見たか、見たのならば覚悟を決めよ、そう静かに告げる。父は男に紋様の意味とそれの表す秘め事を語り、命を賭してでも幼女を守れ、と厳命る。
十四の春のことだった。
そして女は夢を見た。
何もかもが失われてしまうことなど想像もつかない頃の夢だった。二度と手にすることの叶わない暖かな日々の記憶が鮮やかに蘇った。
夢の中で女は幼女の姿をしている。父が宮司を務める神社の境内にいる。
石段を一人の侍と連れだって少年が上って来る。目が合って何やら気恥ずかしくなり父の元へと駆け出す。
それが最初の出会い。
女は父と共に社で過ごす。神社に祀られる金山神に奉職すること、それが女の一族の御役目。
何があってもこの社を守らねばならぬ。秘められたものを守らねばならぬ。女の父が口癖のように言う。
女がその真意を知るにはまだ幼い。その幼さ故に女は自らが背負うものの重さを省みない。
初め言葉を交わすのは躊躇われたが、顔を合わせる度に女は徐々に少年に対して心開く。
女は少年を兄のように思う。
少年の眼差しは優しかった。その声は穏やかだ。女の脈絡のない話にもいつも興味深そうに耳を傾け、いつまでも付き合ってくれては楽しそうに目を細めている。少年の微笑みは女にとって日々もたらされるささやかなご褒美だ。
社の裏手にある山を登ろうと言い出したのは女の方だ。山の奥まったところに山慈姑が咲き乱れる場所がある、一斉に咲き誇る姿を見るには今しかない、それを見に行こうと少年に持ちかける。父から伝え聞くだけのその景色を見てみたいという思いもあるが、少年に見せたい、花の原を前にした少年の笑みが見たい、そして連れてきたことを褒めて貰いたい、その気持ちが強い。
よく晴れた日。花を愛でたらそのまま山を下りるつもりなのだ。
はっきりと場所が分かっているわけではない。歩いて行けばそのうち着くのだろうというくらいの気安さでいる。道が細くなりやがてそれすらなくなってしまっても、この先もう少し行けば目指す場所に辿り着くのだとそう思う。その期待とは裏腹にあたりはいつしかとっぷりと暮れてしう。
女は途方に暮れる。天を仰いでも茂る木々に遮られて星も月も見えない。闇が今まで来た方角どころか今立っている足元すら女の目から覆い隠す。突如として宙に浮いたような心地がする。
山の冷気が女を凍えさせる。肩が震える。脚が震える。頬が震え甘噛みするように下顎が小刻みに上下する。身体の温もりが失われるのと入れ違いに湿った寒さが胸の芯で脈打つ場所を探るように染み込んでくる。
女は少年のいた方に震える腕を差し出す。その手は少年の袖を掴むことなく虚しく握られる。何度指を伸ばしてもそぐ側にいる少年に届くことはない。
少年の名を呼ぼうと喉を震わせかけたその時、暗闇を裂くように山犬の遠吠えが響き渡る。傍らで少年が息を呑むのが聞こえる。その後耳に入るのは下藪を乱暴に掻き分ける音、遠ざかる荒い息づかい。
女は取り残されたことを悟る。膝から力が抜ける。地に落ちた下半身から地面の冷たさが温もりを奪っていく。零れ始めた涙を止めることが出来ない。か細く少年の名を呼び助けを求めるが返答はない。
父の名を呼ぶ。母の名を呼ぶ。その声は全て暗闇に吸い込まれてしまう。寒さばかりではなく言いようのない孤独と恐怖が女の体を震えさる。
何日、何ヶ月、何年とも思える時が過ぎ、もう息をすることさえ出来なくなる、と思ったその時。女の体を何者かが締め付ける。心臓が跳ねて暴れる。
耳元で、ごめん、と声がする。ごめん。かえろう。いっしょにかえろう。それが少年の声だと分かり、漸く女は自分が抱き締められているのだと気がつく。
体が大きく揺れて宙に浮き、胸と腹が硬いものに押し潰される感じがする。下草が音を立てるたびに体が上下に揺さぶられる。ああ。自分は少年の背に負われているのだと思う。少しずつ安堵の念が女を包み始める。
そして全てが曖昧になる。
寒くて寒くて仕方がない体を乾いた何かに覆われたような感覚。時折何かが体中を這うようなちくちくとした感覚。朧気ながらそんなものを感じる。
寄せては返す波のように体中が熱を帯びては冷め、冷めたかと思えばまた熱くなる。何度も苦痛に襲われる。
朦朧としながら女は初めて自分の肌に墨を含んだ針が入れられたときの激烈な痛みを思い出す。傍らには母がいる。母は女の手を優しく握って、堪えて、堪えておくれ、許しておくれ、と涙を流し続ける。女が物心ついたときから何度も何度も見た光景が肌を刺す痛みとともに蘇っては消えていく。
女が我を取り戻しすと一緒にいたはずの少年の姿がない。確かに暗い山の中にいると思った自分は、ただぽつねんと見慣れた寝所に横たわっている。傍らで母が泣いている。その姿が肌に墨を入れられるときの様子と重なり、何だか不思議に思える。
山から下りた二人が倒れているところを在の百姓が見つけてくれたお蔭で助かったということ、あと少し遅れれば命が危なかったということを聞かされる。
何日も熱を出して寝込み、何とか起き上がれるようになった矢先のこと、父に昇殿するように言い付かる。
浄衣に着替えさせられて拝殿に上ると、宮司である父は神前で祝詞を上げ、玉串で女を払ってから厳かな声で女に告げる。お前は少年に腰の図像を見られたのか、見られたのならばそれはそれで構わない、ただ今回のようなことは二度とするな、あたら命を危険に晒すような真似は控えよ。女の身が縮む。怒鳴るでも叱り付けるでもない父の物言いび涙が止まらない。
まだ八つになったばかりの春先のことだった。
そして二人の夢が交錯する。
八つの幼女は十四の乙女に。十四の少年は二十歳の若武者に。互いの目に向かい合う相手を映して語り合う。
覚えておるか。何をでございましょう。俺とそなたが初めて会うた時のことを。はい覚えております、貴方様は小童でございました。そなたも幼子だったではないか。
乙女と若者は声を上げて笑う。
腰は……痛まぬか。腰……ああ、あれ、でございますか……。少しずつ増やしておるのだろう? ええ……墨を差すときは涙がこぼれます。辛いな。でもそれももうすぐおしまいです。仕舞いと? はい、おしまいです。
若者は乙女の手を取り、乙女は若者に儚く微笑む。
俺にそなたの苦しみは肩代わり出来ぬ。はい。俺にそなたの両肩に掛かる重みを消すことは出来ぬ。はい。それでも俺はそなたを見ている、何があってもそなたもそなたの抱えるものも守る。はい。必ず守る。はい。
乙女は眼を細めてにっこりと笑う。若者はそれを見て微笑む。
わたくしはいつも身近に感じております、貴方様その思い、そう思うて下さるだけでわたくしは心軽くなるのです。そうか。はい。そうか。はい。
若者の眼に微熱が宿り、乙女の頬に桜色が差す。
これをな、渡そうと思っていたのだ。まぁ、簪でございますか? 可愛らしい鳥ですこと。ああ、城下に腕の良い木彫職人がおってな、誂えさせたのだ、これはこの根付と組になっていってな。まぁ。こちらとこちら、二つの波形と溝を合わせて重ねると。ああ……二羽の鳥が一つに……。比翼の鳥……のつもりなのだが……。
乙女の目が潤み、若者の顔が紅潮する。
この簪を持っていては貰えまいか、その……俺はそなたの側に……いたいのだ……いつ如何なる時でも……。ああ……嬉しゅうございます、とても……嬉しゅうございます……。そうか、喜んでくれるか。はい、連理の枝を得た心持ちです。いや、この細工の材は柘植の椋なのだ。ふふ……ふふふ。ん? おかしいか?ああ……そうか。うふふふふ。ふ、ふふ……ははははは。
寄り添う若者と乙女は笑う。笑い声は野を渡り山へ渡り行く。夕日と赤く色づいた山がそれを受け止める。紅葉は赤く、陽は赤く、それはそれは燃えるように真っ赤で――
枕の上で女の口から呻き声が漏れる。夜具の上で男が藻掻く。夢の中の赤い光景が様変わりをする。
暗い天を舐め燃えさかる炎が女の目の前まで迫る。熱気が女の喉を灼く。声を振り絞って父の名を呼びたくなる。出来ることなら父の体を炎に包まれる拝殿から運び出したいと願う。今際の際の父が女に送った目配せがその全てを押し留める。父の目は逃げろと言っていた。
血刀を手にした侍の姿が見える。女は身を低くして息を潜める。あれは父を斬った男。この社を血で穢し炎で侵した男。逃げねば。あの男の手に落ちる前に逃げねば。
そうだ。母は今どこに。女は侍を伺いつつ出来る限り死角となる場所を選んで境内を急ぐ。宗家の女は代々肌に図像を帯びている。逃げなければならないが母もあの男に捕まってはならない。
摂社の陰から炎に照らされた緋袴の裾が覗く。拝殿から寝所まで回った火に炙られて柱が梁が大きな音を立てて裂ける。侍が物音に振り向く。その隙を突いて女は摂社の陰に走り込む。
地に腰を落とし啜り泣く母の顔を胸に掻き抱く。気配がする。素早くより影の濃い方へと母を押しやり素早く緋袴の裾を隠す。侍が低い向拝の前を行き過ぎる。気付いてはいないようだ。
女は母の両手を取り胸の前で強く握る。涙に濡れた母の目が不安そうに揺れる。泣きたい。泣き喚きたい。けれども今はこの難局を乗り切らねばならない。女の目に力が宿る。それを見つめる母の目に精気が蘇る。女が頷く。母も唇を結んで頷く。
女は駈ける。母の手を引いて駈ける。地の利はこちらにある。勝手知ったる山へと入れば侍も容易には追って来られまい。灌木が邪魔をする。足袋裸足が積もった朽ち葉に取られる。それでも女は走る。生きねばならぬ。二人して生きねばならぬ。何としてでも。
まだ明けきらぬ薄闇に炎が揺れる。取り落とした提灯の火袋を焦がす火は瞬く間に全体に回る。紙と竹の焼ける臭いが漂う。
男は見つめる。ただ見つめる。炎に照らし出された朝焼けよりも夕焼けよりも赤い赤い血だまりを。その中に倒れている父の姿を。
あの男だ。あの男が父を斬ったのだ。父と同じく寺社奉行配下の古筆見役の男が父を誘い出しこの辻で。男が屋敷を訪ねてきたときの父の様子は剣呑だった。もう少し早くに後を追っていれば。男は後悔する。眉間に皺が寄る。父の死に顔が無念と告げている。
男は古筆見役の住まいを訪れる。蛻の殻。古筆見役の男が父を再三訪ねては言い争う姿を男は思い出す。古筆見役は古い文書で知ったと言った。合力して欲しいと何度も頼んでいた。父は男を諫めていた。莫迦な真似は止めろと何度も諭していた。
古筆見役の男は姿を消した。藩内のどこにも見つからない。古筆見役が姿を消した後二つのことがすぐざま発覚する。藩の御用金が消えていた。かなりの纏まった額だった。金屋神を祀った社が焼き討ちにあっていた。宮司は惨殺され焼け落ちた拝殿から見つかった。宮司の妻娘はついぞ見つからなかった。
父の死にあらぬ嫌疑か掛けられる。斬られた父の懐から神社の宝蔵の鍵が見つかる。切餅も見つかる。封は切られ中身は五両しかないが、消えた御用金の一分であることは包み紙からも明らかと言われる。
逐電した古筆見役と父が共謀し御用金を盗み社の宝蔵を襲った末に仲間割れで殺害されたのだとされる。男は父がその様なことをするはずがない、全ては古筆見役の仕業で父は濡れ衣を着せられたのだと詮議の場で訴えるが、父の遺骸から見つかった品以上の明確な証拠を示せない。
男の家は御役御免の上改易となる。母は失意の内に床に伏し程なく力尽きて息を引き取る。
男は怒りに燃える。父を斬殺して濡れ衣を着せ母の命を奪った古筆見役を腹の底から憎む。同時に男は悲しみに暮れる。固い約束をして誓ったにも拘わらず社家の娘を守れなかったことを悔やむ。
男は出奔する。必ずや父の敵を討ち果たさん。乙女の無念を晴らさん。地の果てまで追ってでも。必ず。
女は彷徨う。時に母の手を引き時に母に手を引かれ、雨の中母の脇を抱え風の中母に脇を抱えられて歩く。ただ歩く。
女は時折木々の実を見つけては母と分け合う。沢の水を汲んで喉を潤す。山育ちの知識と経験が二人の命を繋ぐ。
国境はとうに越えている。山が途切れ平野が続く場所に出ても、女は拓けた街道を避け歩きにくい小径を選んで進む。女は森の木々を縫い林の下草を踏む。
社を襲った男の目的が自分と母の肌に刻まれた図像ならば、網を張りやすい街道筋は避けるべきだと女は頭を働かせる。その勘働きがやがて裏目に出ることになるとその時は思いもしない。
季節が行き過ぎる。食うや食わずの日々が続く。時折行き当たる人家で食べ物を分けて貰えないかと乞う。軒先を一晩貸してはくれまいかと頭を下げる。願いが受け入れられることもあったが概ね人々は得体の知れない余所者に冷たい。
女の着衣も母の水干緋袴も薄汚れ解れ裂けていく。母が漂泊する白拍子と間違えられ舞を強要されたり体を求められることも一度や二度のことではない。生きるために母は涙を呑む。女も堪え忍ぶ。
女はただ一つ焼け落ちていく社から持ち出すことの出来た品を眺めては涙を落とす。若者があの日くれた鳥を彫った簪は日に日に艶を失い煤けていく。女はこの簪だけは決して手放さないと誓う。あの幸せに満ち溢れた日々の名残を失いたくはない。
雪が舞っている。全てが白く覆われている。母の肌と同じくらいに白い。雪が冷たい。女の腕の中で黙して目を閉じる母の体と同じくらいに冷たい。一夜限りと忍び込んだ百姓家の納屋で女の母はひっそりと息を引き取る。
納屋の持ち主だった百姓は行き倒れの無縁仏として女の母を寒村の外れに葬る。百姓は女に食事を与える。貧しいものだったが人の口に入るまともな食べ物は随分と久しぶりに思う。百姓は女に湯を使わせ温かい寝床も与える。女は百姓に感謝する。打ち拉がれるばかりの自分に掛けてくれた情を有難く思う。母子に冷たいばかりの世間の辛さを一時忘れる。
だが女は世間の本当の冷たさと残酷さを思い知る。
半合羽を着た男が百姓家を訪れる。百姓と暫く話し込んだその男は女の顔をしげしげと眺め口を開けさせて中を覗き込んだかと思うと、女の袖や裾を捲って女の手足を確かめる。半合羽の男は胴巻きから幾ばくかの金を出すと百姓に渡しそのまま女を連れ出す。百姓とはそれきりとなる。
女は生まれて初めて女衒というものを知る。
食うや食わずだったのは女だけではなく、寒村で暮らす百姓も同じ。百姓は決して親切から女を助けたのではなかった。身売りさせる娘のいなかった百姓にとって女は降って湧いた後腐れのない金づるでしかなかった。
金で買われた女は女衒と旅をする。もう道なき道を行くことはない。贅沢ではないにせよ飢えとも無縁になる。しかし決して心安らかな旅ではない。貧しい村々を回って同道する娘の数が増える度に流される涙が増える分だけ女の足取りが重くなる。女衒は皆に容赦がない。娘たちは常に怒鳴られ叱りつけられただひたすらに歩かされる。
そうして女は吉原に辿り着いた。
男は彷徨う。ほんの少しの痕跡を求めて。微かに残された臭いを辿って。男は獲物を追う犬になるのだと己に言い聞かせる。
国中をくまなく探す。逐電した古筆見役の立ち寄りそうな場所。街道沿いの宿場、。領内に点在する寺社。市が立つ場所。悪所にまで足を運ぶ。
根拠のない噂話に踊らされる。古筆見役の話を聞かせる替わりにと金を無心される。何度も何度も落胆を繰り返す。それでも絶望はしない。
古筆見役の今風体は分からない。それでも人相特徴を頼りに商人百姓武士町人ありとあらゆる人に聞き込んで足跡を探す。日に夕に何度も何度も古筆見役の顔を思い出し脳裏に焼き付る。
藩の領内を歩き回り風の噂を頼りに隣国へと足を伸ばす。どの国でもやることは同じ。人に会い話をし話を聞く。男は粘り強く古筆見役の男を探す。
国から国へと渡る内に路銀は瞬く間に目減りしやがて尽る。男は身に帯びたもので金に換えられるもの手放す。印籠も売る。脇差しも金に換える。父の敵にこの刃を浴びせ掛けんと誓った愛刀も売り払う。
それでも男は根付けだけは手放さない。汗と埃と雨風ですっかり汚れてしまったが、この根付けを手放してしまえば故郷で過ごした穏やかな日々の思いでさえ失ってしまうと男は思う。男は根付けを握りしめては乙女と過ごした時を思い出す。乙女を守れなかったという慚愧の念が責め苛んだが男はただひたすら耐える。
いよいよ銭も尽きてしまい空腹を抱える日が長く続くようになる。男は着衣を解き物々交換で食料に替える。笠も旅合羽も野袴も帯も男の胃の腑に消えていく。
流れ流れて気が付けば人の話す言葉がすっかり様変わりしている。故郷のお国訛りを聞くことがなくなってしまう。男も国の言葉を話さなくなっていく。
何度も何度も街道に設けられた関所が男の行く手を阻む。手形など持たずに出奔した男を簡単に通す関はない。すっかりと貧しい身形となり水呑み百姓と見紛うばかりに落ちぶれてしまった男の言葉に耳を貸す役人などいない。
男は関のこちら側で歯噛みする。ここで足止めを食っている間に敵の男は遠く逃れてしまうかも知れない。関を破れば一時は進めるだろうが捕縛されれば命の保証はない。首を河原に晒されることになればこれまでの労苦の一切が報われることなく灰燼に帰してしまう。
様々な計を案じる。国を跨いで荷を運ぶ一団に人足として潜り込む。薦を被って狂人の振りをする。上手く行くこともあれば上手く行かないこともある。夜陰に乗じて山越えをする。命懸けの日々。
雪の降る日に男は倒れる。何日も水しか口にせず滋養分を失った体は指一本動かない。このまま生き倒れてしまうのか。本懐も遂げず異土で朽ち果て白骨を野辺に晒すのか。男の目に涙が溢れ冷え切った頬を伝って降り積もる雪の粒をわずかに溶かす。
男の命はたまたま通りかかった初老の男に救われる。街道一の大親分として近郷近在に名を馳せていた博徒の頭。見ず知らずの行き倒れに着る物食べる物を与え回復を待つ情に厚い男。。博徒頭が人心地付いた男の口から抱えている事情を聞き暫くこの場に留まるように男をす。
蛇の道は蛇。博徒の頭はそう言う。男の敵は日の当たる場所ではなく裏道を行かねばならない。外道は所詮外道。逃げる内に金が尽きれば凶行を働くかも知れないし博打で何とかしようとするかも知れない。外道は外道を呼び外道同士で連む。博徒を束ねる一家の頭である自分の耳には裏街道のあらゆる話が入ってくる。辛抱強く待てば必ず手掛かりが見つかる。
男はその言葉に賭ける。命を救われた恩義もある。男は博徒頭の食客として武芸の腕を貸し用心棒として働きながら裏街道に張り巡らされた網に敵の手掛かりが掛かる時を待つ。
博徒頭の縄張りで過ごす内に春が七度度訪れ季節が巡る。その間に努めた用心棒稼業で男の手技や度胸は磨かれていく。男は決して人を殺めないし博徒頭も殺めさせることはない。だが一度事あれば男は鬼神のように腕を振るい厄介事を平らげる。
ある日男は頭から獲物が網を掠めたという話を聞かされる。男の敵は今江戸表に身を潜めているらしい。それと同時に男は聞かされる。八年ほど前に一人の女衒がある娘を吉原へと売り込んだ。その娘は男が肌身離さず携えている根付と同じような細工の施された柘植の簪を持っているということを。
男は膝を折って号泣する。
博徒頭は旅支度と充分な路銀、そして手形を男に与える。そればかりではなく伝手を辿って男が吉原で働けるように手配までする。例え江戸は広くても悪所で待ち構えていれば間違いはない。国元で働いた悪行が行方知れずとなっていた神社社家の母子に関わるものならば、敵の男は何れ吉原に現れる。博徒頭は男にそう語る。
漢泣きに泣いて男は博徒頭と別れる。本懐を遂げ全てが終わったら必ずまた恩返しに来ると約束をする。博徒頭がただ笑って男を送り出す。
こうして男は江戸は吉原に入った。
夢の中で女が吉原で過ごした歳月が流れる水のように行き過ぎる。
女衒のでっち上げた偽の証文を形に身に覚えのない借金を背負わされた女の妓楼での暮らしが始まる。先に奉公を始めていた禿たちが年上の自分の姉となる。慣れない廓言葉を仕込まれる。年増の遣手からは床での手練手管を叩き込まれる。
幸いにも故郷で社家の娘として暮らしていた時分に読み書き、歌舞音曲には通じていたためその手の修練に苦しむことはない。
女は他の禿が六、七年ほど掛ける所を大幅に縮められて三年ほどで水揚となる。妓楼は既に十八を迎えていた女にそれ以上の時を掛けることを許さない。破瓜の傷みは幼い頃より腰に施されてきた彫り物の傷みに比べればあっけない。
水揚が終わり突出しを経て女は振り袖を着せられて見世に出される。客が早くから付く。昼に夜に女の体の上を幾人もの男たちが通り過ぎていく。女の中で濡れそぼり打ち捨てた御簾紙が数限りなく積み重なる。
腰の図像のことは妓楼の者にも客にも精一杯隠し通す。体が酷い熱を帯びねば表に浮き出さない風変わりな彫り物に気付く者はいない。
生まれついての器量は良かったが天賦の才があった訳ではない。ただ堀と黒板塀に囲まれた郭に捕らわれた此の身が晴れて外へ出られる日を待ち望んで女は励む。故郷で変わりなく暮らしているであろう若者の元に戻れる時を夢見て女は繁り続ける。
いつしか女は部屋を持ち妹となる。禿や新造たちから姉と慕われ誰からも花魁と呼ばれるようになる。
故郷での穏やかな日々を奪われて十年の時が経っていた。
男が夢に見ている光景は目まぐるしく移り変わる。
吉原に着き名主と会い世話になった博徒の頭からの書状を渡す。博徒の頭の評判は遠く江戸にも知れ渡っている。男はその威光のお蔭で身元を保証され居所を得ることが出来る。
己は士分であるとは言わなかったし今更言う気もない。国元ではもう既に男は死んだものと扱われているだろう。籍を失った無宿として御公儀に捕らえられるよりもただの町人として生き存えることを男は選ぶ。
男は下働きを厭わない。釜焚き使い走り不寝番と何でもやる。通りを掃き清め屑を纏め水を打つ。その傍らで揉め事があれば諭し口説き言いくるめ必要とあれば力に訴える。男の働きは認められることとなり会所のお勤めを任される。
会所で郭から出る女たちを監視する出る者に目を光らせる場所で同時に入る者にも目を配る。男は待つ。ひたすら待ち続ける。何度も何度も思い返しては脳裏に一枚の絵として刻まれるに至った憎き男の耳の形を人波に求める。
男は日々を忙しく過ごしながら僅かな暇を見つけては郭の中を歩く。汗や手垢にまみれて黒ずみ誂えさせた頃の色艶などすっかり見る影もなくなった根付を手にその片割れとなる簪の持ち主を訪ね歩く。三千人からいる女郎の中から探す相手を見つけるのは容易ではない。未だ父を斬り全てを奪った男と立てた誓いの相手となる乙女と巡り会えてはいない。
父の敵を追い国元を離れて既に十年の歳月が過ぎていた。
どうしてこんなにも昔のことが思い出されるのだろう。
浅い微睡みに戻った女はぼんやりと思う。
何故こうも一遍に思い出が蘇るのだ。
男は目を閉じたまま奥歯を噛み締める。
夢に見るならばせめて楽しいものだけ見させてくれればいいものを。
女は胸の内で恨み言を言う。
決して忘れるなということか。何度でも思い返せということか。
男は深く息を吐く。
女の手が伸びそっと簪の細工を指でなぞる。
男の右手が根付を捉え掌の内にそれを握りしめる。
「新九郎さま……」
女は男の名を呼び一筋の涙が枕を濡らす。
「真砂……」
女の名を口にした男の額に浮いた脂汗が褥に落ちる。
片羽を持たない二羽の鳥は互いの翼を求めて止まず身を添わせて空を飛ぶことを願う。
病んで床に就いている女と仮眠を取っている男の耳に遠く明け六ツの鐘が響く。
もうすぐ夜が明けまた郭の一日が始まろうとしていた。
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