籠中の比翼 吉原顔番所同心始末記
(一)
湯飲みの中に茶柱が立った。
ぼんやりと眺めていた一之進であったが、やがて肩を落として深く溜息をついた。
巷間まことしやかに茶柱が立つのは吉兆だと言われるが、こと一之進にあっては事態は全くの逆しま、吉兆どころか厄介事の前触れに他ならなかった。
幼少の頃、子猫を追いかけて登った木から転落した朝に茶柱が立った。
道場の悪友共が仕掛けた悪戯に掛かり全身濡れ鼠になった上に師範代に不届き千万と叱責された昼にも、非番のときにのんびり釣りでもと小舟を一艘借り受け大川に繰り出したはいいが、ついうとうととしてしまった間に流され江戸前の洋上で途方に暮れた朝にも茶柱が立った。
身に降りかかった一番の危機はといえば、初鰹など到底口には出来ぬ薄禄の身であるが、将軍様のお下がりとして夕刻に安値で売られるものならばと買い求めたときのこと。鮮度は怪しいが問題あるまいと高を括って平らげたのはいいが案の定腹を下して一晩中七転八倒。このとき立った茶柱は二本だった。
「また碌でもないことにならねばいいが」
一之進は独りごちて渋い顔で茶を啜り格子の間から番所の外に目を向けた。
日本堤から衣紋坂を下り来る人の流れは今日も途切れることを知らない。兎角江戸の男たちは何だかんだと理由を託けてはこの黒塗りの冠木門を潜っていく。
連れだった男たちが、坊主の読経が長くて欠伸が、叔父貴も嘸かし棺桶の中で退屈したろう、などと言いながら足取りも軽く行き過ぎる。あれは身内の葬儀で集まった親戚同士だろうか。葬儀の後に精進落としなどと称して登楼する者たちか。親戚一同集まって故人との別れを惜しんだ後に、二、三人男衆の顔がふいと見えなくなることは珍しいことではない。
流石に葬儀の直後とはいくまいが、その僧侶たちも大門を潜る。戒を持して女犯を犯してはならぬ身ではあるが、女郎に入れ込む者がいることは公然の秘密である。日本堤に居並ぶ船宿から出て来る頭巾を被った医者の風体をした男を当たってみれば、その幾人かは破戒僧の変装であることが知れる。
門前に掲げられた高札をしげしげと眺め、手にした細見らしき本と見比べている何とも垢抜けない旅装の者は、何れの国から上り来た者であろうか。噂に聞く花魁とは如何なるものかと興味津々で訪れたのだろう。国に帰れば土産話として大いに自慢し、その煌びやかさを吹聴することだろう。
多くの男たちが灯りに吸い寄せられる羽虫のようにここに惹き付けられる。訪れた男たちは己の欲に忠実に下帯の脇から栗の花の匂いを吐き出すばかりか、懐からは大量の金子を吐き出す。男の身の下からも身の上からも吐き出されたもの全てを吸い、喰らい、呑み込んではその生を存える里。それがここ、吉原という場所であった。
「何じゃ一之進。呆けた顔をしおって」
不意に戸口から声を掛けられ、びくりとした一之進の手から湯飲みが滑り落ちそうになる。
「こ、これは小父上……いや、木嶋様」
上役を前に慌てて取り繕う一之進に鬼瓦のような面相が愉快そうに喉を鳴らす。
「よいよい。儂等二人の時には平生のように小父上で構わん」
「そう仰いましてもここには手先も多数出入り致します。それでは下々に示しが付きません」
「相変わらず固いな。そなたは」
鬼瓦はそう言って相好を崩す。
小父上と呼んではいるが、一之進とこの強面、木嶋伝兵衛との間に血縁関係はない。しかしながら一之進の父、平三郎と長年にわたり水魚の交わりをし、元服前より剣の稽古に文字の手習いにと何かにつけて気に掛け可愛がってくれた伝兵衛を一之進は親しみを込めて小父上と呼んでいたのだった。
幼い頃からの習慣は気を付けてはいても時折ひょっこりと顔を覗かせる。伝兵衛を上役として仰ぐようになっても、気が緩むとつい口を突いて出てしまう。
威儀を正した一之進に、真顔を作った伝兵衛が問う。
「して。吉原顔番所詰同心富澤一之進よ。首尾は如何に」
「大事なく。怪しき者一人として通っておりませぬ」
一之進はこれまた真顔で応え黙礼する。
「ふむ。常に抜かりなきよう。善く善く励めよ」
「は」
「なぁ一之進よ」
一くさり小芝居のような遣り取りを終え、伝兵衛は声音を和らげる。
「お前ももう三十路の坂を上り切る。後十年も辛抱してしっかりお勤めすれば、何れは定町の廻り方に取り立てられよう。お前は何かにつけて目端が利く。地道に勤め功績を挙げれば与力に出世することもないとは言わんが、それは中々に難しかろう。そこまで身を立てずとも定町廻りといえば花形。そうなれば。そなたの父も……浄土で鼻が高くなろうというものよ」
伝兵衛は白髪の交じった眉根を上げて天を仰いだ。二人の間をただただ静かな空気が流れた。一之進は長年共に御役に邁進した朋友を思い、またその一人息子の行く末を案じるこの老人に胸中で改めて頭を下げた。
そういえばあの時は茶柱が立たなかった。一之進は平三郎が亡くなった日のことを思い返した。
失火であったのか付け火であったのかは結局分からずじまいだったが、橋場町から出た火は折からの風に煽られて南西は江戸城方向へ広がった。北町奉行所同心であった平三郎も、駆けつけた火消たちの陣頭指揮に出馬した奉行能勢肥後守様手勢の一人として火事場へと出向いていた。
幸いにも火事は大規模な延焼は免れ、半日を経ずして鎮火したが、皆が胸をなで下ろしたのも束の間、伝令役として飛び回っていた平三郎の上に焼け残った家屋が倒壊するという不幸な事故が起こった。誰一人として声を上げる間もない出来事だった。
あれから干支は一回りしたが、今でも一之進は弔いの場を訪れた伝兵衛の泣き顔を忘れることが出来ない。伝兵衛は亡骸を前に泣いた。生きながら焼かれなかったことは僥倖だったと言いながら、朋輩の名を呼んでは返らぬ応えにまた泣いた。男泣きとはこのようなものなのだと得心しつつ、一之進はその姿をいつまでも見ていた。
十四より町奉行所同心無足見習として奉仕し、漸く見習へとなった矢先のことだった。父を先達として多くを学び取り、本勤並、本勤と徐々に格を上げて正式に俸禄を与えられる身として立派に御役を勤めたいと思っていた。その願いは叶えることの出来ないものとなってしまった。
父は世を去った。しかしながら一之進には伝兵衛がいた。伝兵衛は時には鬼のように厳しく、また時には菩薩よりも優しく一之進を教え導き、誠の父のように支えててくれた。奉行所内ではまだ若輩者の一之進を吉原顔番所勤めに推挙してくれたのもこの伝兵衛であった。
「どれ。しばらく儂が詰めていよう。そなたは一回りしてくるといい。ここの様子に馴れるには足を使うことも肝要であろう」
番所内に漂ったしんみりとした雰囲気を変えるように伝兵衛が朗らかに言う。
「ではお願い致します」
伝兵衛の心遣いを有難く頂戴し、一之進は一礼して差料を腰に納め、木戸を潜って表に出た。
大門を挟んで対面に位置する四郎兵衛会所の前にいた若い衆がこちらを見て頭を下げる。一之進は通りを横切り男の元へ歩みを進めた。
「旦那、御役目ご苦労様にございやす。今日もいいお天気で」
妓楼大島屋の紋の入った半纏を羽織った男は揉み手もよろしく一之進に挨拶をする。
「うむ。変わりはないか?」
「へぇ。特に何もございやせん」
「そうか。何かあればこちらにも届け出るのだぞ」
「承知致しましてございやす」
男は腰を折って畏まった後に、低い声で付け加える。
「その時には……是非……」
一之進の手に、す、と何かが滑り込んだ。小さく折り畳まれた紙の手触りの内に硬く角張った感触があった。銀。あるいは金か。一分とまでは行かなくても一朱はあるだろう。
奉行所より遣わされた与力同心が詰める顔番所は吉原に入る不逞の輩を取り締まり、各妓楼より選られた若い衆が常駐する四郎兵衛会所は吉原から出る怪しき者に目を光らせる。
入る男に出る女、悪所に身を隠そうとする者と苦界から逃れようとする者という具合に、相手は違えども同じく吉原大門の出入に注視する間柄。互いに通じ合わねば立ち行かぬ。これも役得、清濁併せ呑まんと一之進は黙してそれを懐に収めた。
頭を下げ見送る若い衆を後に一之進は着流しの裾を揺らして仲の町に向けて足を進める。
「北廓も小春日和に事もなし」
いつもと変わらぬ往来の風景を見渡しそう嘯く一之進だったが、ふと湯飲みの中に立った茶柱が思いの外の太かったことを思い出して、ただただ憂鬱になった。
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