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​幻蝶

 暗闇にぽっかりと浮かぶ生白い首筋に、剃刀の刃を当てた。

「ねーぇ、早よう髪を結っておくんなまし」

 打掛けごと落とした着物を肘に引っ掛け、胸元まで露わにした幻蝶が滅多に使わぬ廓言葉でころころと笑う。私は「あい」とだけ答えたが、果たしてそれは聞こえたかどうか。昼八つの頃から降り出した雨は激しく、障子一つを隔てているのに、お手玉の中身を勢いよく散らしたような音を部屋に響かせている。

 私は、静かに暗闇を吸う。嫌味なほど濃く焚かれた白檀の香に混じって、濡れた畳の匂いがした。随分と長い間畳についていた膝に、い草が食い込む。されど痛みは鈍い。

 暗闇の中で白刃が浮かぶ。ぬばたまの髪はほつれ、艶かしく首筋を彩る。そして私は目を閉じる。
 瞼の裏に白と黒は焼き付いている。それを追いかけるように、私はかじんだ指先で剃刀を横に引く。
 ぶつと、刃が皮膚を喰んだ。

 

(一)

 幻蝶は私と同い年の少女だった。

 見目麗しい少女であったと記憶している。けれどここは遊郭。見目麗しい女など掃いて捨てるほどいて、彼女も私も結局は有象無象の塵芥にすぎなかった。
 それでも私達は芸を学び、閨の決まりを覚え、必要とあらば学を収めた。いつしか私達は楼主に目をかけられるようになり、他の禿と分けて指導を受けることとなった。私と幻蝶の間に優劣はなく、人は会うたび、私達のどちらかを褒めそやした。あんたはいつか振袖新造に、ゆくゆくは太夫にさえなるだろう。突出しの日がいっとう楽しみだと。
 私は誇らしかった。遊郭にあって、これほど素晴らしい褒め言葉はない。一方で、幻蝶はいつもつまらなさそうに聞き流していた。

「わっちはわっちが望んだから花魁になる。褒められることなんて、なんもあらへんよ」

 黄昏に染まる畳の上で伸びた幻蝶が、西訛りの言葉でぼやく。私は呆れて息をついた。

「そう思うのは自由だけれどね。あんまり大っぴらに言わない方がいいよ。相手が気を悪くする」

 糸切り歯で糸をぷつと切る。幻蝶の珍妙な視線に、私は繕い終えたばかりの着物を広げて見せた。

「これ、あんたのでしょ。ほつれてたから直してあげたの」
「頼んでへんけど」
「着物は大事に使わなくちゃ」
「そんなもの、どうとでもなるわ。汚れたら捨てて、誰かに貢がせればええ」
「水揚げ前のあたし達に誰が貢ぐっていうの」

 目をぐるりと回し、私は畳んだ着物を投げてよこす。
 畳の上に、使い古された着物が音も立てずに落ちた。幻蝶はしかし、それを見もせずに鼻を鳴らす。

「あんたのそういう良い子ちゃんを演じてるところ、本当に損してると思うわ」
「……演じてなんかない」
「嘘つき。相手の気持ちを汲んで、下手くそな媚を売ってばかりやないの」
「ここは遊郭よ」私はきっと幻蝶を睨んだ。「身内に気に入られれば早く客をとれる。客をとったら客を喜ばせる。どうやったって、相手に媚を売らなくちゃあいけないでしょう」
「そんなことをしなくても、わっちが楽しければそれでええ」

 幻蝶はむっくりと上半身だけ起こした。乱れた黒髪が乱れた胸元に落ちる。黒真珠の目を爛々と光らせ、紅の唇を優雅に歪めて彼女はにやにやと笑った。

「わっちを喜ばせるために、あんたらがおるんよ」

 幻蝶と私の差が出てきたのは、ちょうどその頃からだった。

 彼女は姿をくらましては色事の噂を流した。食事の選り好みは一層激しく、気に入らない食べ物は容赦なく捨てた。三味線は指が痛くて叶わないと、稽古の度に歌を歌ってばかりだった。

 だのに、彼女はより美しくなり、気が向いた時に奏でられる芸事には一分の隙もなかった。
 肌は一層艷やかに、桜色の爪に彩られた細い指先の一つまで甘い誘惑を滴らせてみせた。奔放な性格を隠しもせず、だというのに誰も彼も彼女の前では不満を燻ぶらせて黙認するか、幻惑されてうっとりと顔を綻ばせるかのどちらかなのだった。

「やぁねぇ。朝も早いというのに、うるさいこと」

 絡みつくような幻蝶の声に、私は三味線の弦を歪に弾いて手を止めた。

 朝の白んだ空気が、細く開けられた障子の隙間から忍び込む。柱に背を預けた幻蝶は、明らかに酒精と分かる酒盃を煽った。小さな喉が上下に動く。はだけた胸元から覗く柔肌に、雫が溢れて消えていく。私は痛いほどに三味線を握りしめ、畳に置いた譜面へと目を落とした。
 昨晩教えられた通りの旋律を再びなぞる。

「弦の押さえが甘い、ばちで弾く音が大きい、音も狂うてる」欠伸を噛み殺しながら、幻蝶は乱暴に足裏で畳を叩いた。「つまらんなぁ。そないな練習しても、なんもならんよ? あんたは下手糞なんやから」
「そんなことない。この前の稽古では、あたしが一番と褒めてもらった」
「そりゃあ、わっちがおらんかったからでしょ」
「あんたは三味線を弾きもしないじゃない」
「弾いたよ。昨日の夜に先生が求めはったから」

 弦に食い込んだ三味線のバチが止まった。信じられない思いで目を上げれば、夜の香を漂わせた幻蝶が間近で膝を折る。
 艶かしく細足をさらしたまま、彼女は頬杖をついて微笑んだ。

「えぇ声で鳴いてくれはったよ。先生も」
「……あんた、なんてことを」私は唇を震わせた。「水揚げ前の娘が、客でもない男をとるなんて……! 主様が知ったらどうなるか、分かってんの……!?」
「うふふ。あんたらしい解答やねぇ。しらじらしくって嫌になっちゃう」幻蝶は人差し指でぽってりとした唇をなぞった。「幻蝶は夜な夜な人を喰っている。老若男女、誰彼かまわず。あれは鬼の子、目をつけられてはならぬ――この噂、あんたも一回は耳にしたことあるやろ」
「噂は、噂でしょう。あたしはあんたを信じてたのに」
「信じるなんて! ええわねぇ、良い子ちゃんを演じてるあんたらしいお言葉やないの」

 幻蝶はからりと笑い、譜面の上に膝をついた。紙をぐしゃりと歪ませて、にじり寄る。顔に落ちる影は濃く、まとわりつかせた白檀と汗の香りが鬱陶しい。自制心よりも嫌悪が先立って思わず後ずされば、幻蝶はにいと笑った。

「そうやって、正しい方にしがみつくアンタが堕ちるのが、楽しみでしゃあないわ」

 私は唇を強く噛み、三味線を捨てて部屋を出た。からころと笑う女の声が追いかけてくる。それは部屋から遠ざかり、昇った日が落ち、再び夜を迎えようとも、私に絡みついて離れなかった。

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