幻蝶
(二)
水揚げ間近の娘は、姉女郎の前で一通りの芸を見せ、水揚げに足る娘かどうかを判断してもらうことになる。
顔色が悪いと、親友の楪(ゆずりは)が案じるような表情をしてみせたのは、そんな水揚げの試験の直前だった。
「あんた、本当に大丈夫?」
「大丈夫よ。練習してきたもの」
「そうじゃあなくって」
楪は溜息をつき、湯を勧めた。気は進まないが、目線だけで念押しされて仕方なく湯を口につける。
雨が、ぽつぽつと庇を叩き始めた。半開きの障子の隙間からぼんやりとそれを眺めていると、楪がおずおずと口を開く。
「ねぇやっぱり止しておいた方がいいんじゃないの。今日の試験」
「いや」
「嫌って」一年早く遊女となった楪が、困ったように眉を下げる。「そりゃあね、一刻も早く水揚げされたいってのは分かるわ。お客をとって金を稼がなきゃ、ここからは抜け出せないもの。でも、今回は相性が悪すぎる。あの幻蝶がいるなんて」
「別に、誰か一人しか選ばれないってわけじゃない」
「それは、そうだけれど」
「じゃあ、何も問題はないじゃない」
つっけんどんに言えば、楪が目を曇らせた。
「あのね……あんたは、お客をとるに申し分ないだけの技量を持ってると思うわ。でも幻蝶の前じゃあ、ちっとも上手く振る舞えないじゃない」
「今までは、でしょ。本番ならちゃんと出来る」
「幻蝶はあんたを喰ってるのよ」
「喰われてない」
「いいえ、あんたは確実に蝕まれてる」
楪が近づき、私の手を取った。彼女の暖かな手に、自分の手が冷え切っていることに気付く。楪の憐憫の視線が注いだ。
「昔のあんたは、もっと笑う子だったはずだわ。それなのに、最近はひどい顔じゃない」
「……気のせいよ。ちゃんと笑える」
「それだけじゃない。気づいてるの? あんたが最近やる芸事って、どれもこれも幻蝶のやった演目ばかりで、」
「あいつが、あたしの真似事をしてきてるの!」
不意に掴まれた手が憎らしくなって、乱暴に振りほどいた。目を丸くする楪をにらみつける。どこからともなく幻蝶の笑い声が響いてきて、私は顔を歪めた。
「あいつが……なんでも真似するのよ……許せるはずないでしょ……!? 稽古も練習もちっともやらないのに! なのに、あたしが弾いた曲をちょっと聞いただけで、完璧にこなしてきてっ……! そんなのに負けるなんてありえないのよ……! まして、逃げるなんてっ!」
息苦しさに顔を覆う。「えろう、必死やね」そんな幻蝶の嘲笑が聞こえてくるようで、思わず己の頬に爪を立てる。
楪にそっと肩を叩かれたのは、そこからさらに三度呼吸をした後だった。膝に何かを落とされる感触。そろりと見下ろせば薄紅色の小袋がある。
楪が耳元で囁いた。
「南蛮から取り寄せた薬よ」
「……あたしは、病じゃない」
「知ってる。この薬は悪人を懲らしめるための薬だもの。大丈夫。死にはしないわ。少し上手く動けなくなるだけ」
顔を強張らせる私に、楪はぎこちなく笑った。
「このままじゃ、悪い蝶がここを食い潰してしまう。それを防がなきゃ。そうでしょ?」
それから数刻後、小袋を握りしめた私の傍で、火鉢がぱちりと音を立てた。
姉様達の支度を終えるまで待つための小部屋だ。試験は姉様達の都合のいい時間に行われるのだから、当然私達は部屋で待っていなければならない。
だというのに、幻蝶は未だ姿を見せていない。
そして私の目の前には、一人分の湯呑がある。
私は震える息を吐き出した。心臓が痛いほどに鳴っていて、あの女の声が聞こえないのは幸いだった。包を開く。細かな白い粉が見えた。なるほど、これならば湯に溶けて消えてしまうだろう。
これを、いれてしまえばいいのだ。私は我知らず喉を上下させた。だって、あの女は悪だ。間違いない。今はまだ被害は軽微だが、これを放っておけばどうなるか。幻蝶は憎らしいほどに上手く立ち回る。上の人間は気づいていないか、気づいていても黙らざるをえないのだろう。そんなものがのさばればどうなる。この楼閣は。
これは、正義だ。震える指先で、包をつまんだ。瞼を下ろす。あの女の緋色が見えた。黒い影が。下手糞やねと笑う煌めきが。
そして彼女は、アンタがここまで堕ちてくるのが楽しみやわぁと呑気に笑う。
「っ……」
痛いほどに包を握りしめ、火鉢に灯った炎に薬をくべた。薄紅色が灰になる。肩で息をしながら、私はぼんやりとそれを眺める。違う、この薬を使うのは間違いだ。あの女と同じところになるわけにはいかない。ぽっかりと空いた穴を寂寥感が抜けていく。それを埋めるように、何度も何度も言い聞かせる。
「しけた面やねぇ」
軽やかな声と共に肩を叩かれ、私は弾かれたように振り返った。
「幻蝶……」
「あらあら。ずいぶん怖い顔しとるやないの。まるで鬼さんみたいやね」
「あんた、今まで何してたの」
「んんー? ちょおっとした暇つぶしやよう」
濡れた唇に人差し指を当て、幻蝶はくすくすと笑う。それを睨みつけるものの、彼女は気にした風もなく無造作に向かいに座った。私が何度も繕った着物をこれ見よがしに広げ、彼女は湯を注いだ湯呑を差し出す。
「ねぇ、あんたはこんなところにおって暇やないの」
「暇なんて、思うはずないでしょ」湯呑をひったくるように受け取り、私は苛々と口づけた。「今日の出来次第で水揚げの日が決まるのよ。姉さまの前できちんと振る舞わなくちゃ」
「まぁた、そうやって媚を売るんやねぇ」
「あんたほどじゃない」
「嫌やわ。わっちは皆の歓心を買ってあげてるだけ」
「そんな態度でいられるのも、今のうちだわ。お客を取るようになったら、あんただってこんなに自由ではいられなくなる」
「客を取ったってなぁんも変わらんよ」
幻蝶は目を細めた。
「ねぇあんた、分かっとるの。わっち達は客を喰らってなんぼよ。あいつらはわっち達に勝手に夢を見て、そうして勝手に目覚めて出ていくの。うかうかしてたら磨り潰されて、食い散らかされてまうよ」
「それが、私達の仕事というものでしょう」
「やだやだ。そうやってすぐに憐憫に走る」幻蝶は一段声を落とした。「だぁれも、わっち達が壊れたかて痛んではくれまいよ。あるいは、そうやね。そうやって壊れたわっち達でさえ、悲劇にしたてて喜ぶんだろうさ。そうであるなら、憐憫なんて最も要らん感情や。やろ?」
「だったら、こんなとこからとっとと出ていけばいいでしょう」
「なぁんで? だからこそ、ここはこんなにも面白いのに」
幻蝶が両手を広げて笑う。その景色が、突然ぐにゃりと歪んだ。びりと舌先に痺れが広がり、私の手から湯呑が落ちて湯が溢れる。
「っ、な……ぁ……?」
「やぁっと効いてくれた」
濡れた着物の上に倒れ込む私を足蹴にして、幻蝶は両手を叩いた。一体なんだ。何が起こった。かろうじて目だけを動かせば、揺れる視界の上から薄紅色の包が振ってくる。
全身が凍りついた。
「ぁ……んた……っ!?」
「ふふ。これが何か分かるなんて、あんたも随分悪い子やないの」幻蝶はからからと笑って、私の耳に手を当てた。「念には念を、やろ? 私は華の花魁になりたいんやから」
信じられない。それをするのか。あんたが。そんなもの無くても、私に優に勝てるであろうあんたが。
一瞬でもそう思った自分が悔しくて、信じられなくて、目の前の女が憎らしくて。
顔を真赤にする私にもう一度にこりと微笑んで、幻蝶は私を転がし着物を引き剥がした。
「ちょっと、誰かおらん? 姉様に会うっていうのに、せっかくの着物が汚されてしもうたわ。新しい着物を持ってきてえな」
白々しく哀れっぽい声を上げ、幻蝶は一度も振り返ること無く部屋を後にする。
それから幾日も経たずして幻蝶は水揚げされ、私はあの女を殺そうと決意した。
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